最近見た場所
マルタについて
マルタ(Malta)は、地中海中央に位置する島国です。小さながらも戦略的に重要な諸島であり、その長い歴史を通じて、地中海支配権を巡るさまざまな国々の争いや、新興のヨーロッパとアフリカ、中東の古代文化との相互作用において重要な役割を果たしてきました。その結果、マルタ社会はフェニキア人、ローマ人、ギリシャ人、アラブ人、ノルマン人、シチリア人、シュヴァービア人、アラゴン人、ホスピタリエの騎士団、フランス人、イギリス人など、さまざまな支配者による外来支配の影響を受けてきました。
マルタの歴史
マルタの歴史は、文明の黎明期にまで遡る長く多彩なものです。
マルタ諸島は黄金の新石器時代を経験し、その遺跡には神秘的な神殿があり、それは肥沃の女神に捧げられています。その後、フェニキア人、カルタゴ人、ローマ人、ビザンチン人など、様々な民族が島々に影響を残しました。
紀元60年、聖パウロがローマへ向かう途中に島に漂着し、マルタにキリスト教をもたらしました。
870年にアラブ人が島々を征服し、マルタ語に重要な影響を与えました。1530年までマルタはシチリアの一部であり、シチリアを支配したノルマン人、アラゴン人、他の征服者たちはマルタ諸島も統治しました。1530年から1798年まで、マルタはソヴェレン・ミリタリー・オーダー・オブ・セントジョン・オブ・エルサレムに譲られ、彼らによって統治されました。1565年の大包囲戦の後、騎士団はマルタを新たな黄金時代へと導き、17世紀から18世紀のヨーロッパ文化シーンで重要な役割を果たしました。カラヴァッジョ、マッティア・プレティ、ファヴレイなどの芸術家たちが、騎士団によって教会、宮殿、宿舎を飾るために依頼され、マルタ諸島の芸術と文化は彼らの存在感で活気づきました。
1798年、ナポレオン・ボナパルトはエジプトへ向かう途中で騎士団からマルタを奪いました。フランスの島への存在は短命であり、マルタ人がフランスに対抗するためにイギリスに助けを求めたため、1800年にイギリスが島々を封鎖しました。
マルタのイギリス統治は1964年まで続き、その後マルタは独立しました。マルタ人は、公共行政、教育、法制度の面でイギリスの制度を採用しました。
現代のマルタは1974年に共和国となりました。1979年に島の外国軍事基地が永久的に閉鎖されました。マルタは2004年5月に欧州連合に加盟し、2008年1月にユーロ圏に加盟しました。
聖ヨハネ騎士団について
聖ヨハネ騎士団(またはマルタ騎士団)は、中世のキリスト教の軍事的かつ病院の騎士団であり、約11世紀にエルサレムで創設されました。元々は病院の世話人として始まり、聖地エルサレムの巡礼者を保護する役割を担っていました。騎士団の完全な名称は「エルサレムの聖ヨハネ病院の貧しい騎士たち」といい、病院で貧しい者や巡礼者の世話をすることから活動が始まりました。
成立と発展
騎士団はエルサレム、ラテン王国の時代に公式に認知され、その後、軍事的な機能も担うようになりました。彼らはクルセード(十字軍)の一環として、キリスト教徒の聖地を防衛する任務に従事しました。エルサレムがイスラム勢力の手に落ちた後、騎士団はその本拠地を一時的にキプロスに移し、その後、1310年にはロドス島へと移りました。
マルタ時代
1522年、オスマン帝国による攻撃でロドス島から追放された後、騎士団は神聖ローマ皇帝カール5世からマルタ島を授かりました。これが「マルタ騎士団」と呼ばれるようになる起源です。マルタにおいて、騎士団はその軍事的かつ医療的な役割を継続し、1565年のマルタ包囲戦ではオスマン帝国の大軍を撃退する歴史的な勝利を収めました。この勝利により、ヨーロッパ全土からの支援が増え、マルタ騎士団はさらに力を増しました。
組織と機能
聖ヨハネ騎士団は、複数の「舌」または「ラング」(国別の部門)に分かれており、それぞれが独自の責任と資源を持っていました。騎士団の主な活動は、軍事防衛、病院の運営、キリスト教徒の保護、海上の海賊との戦いなどでした。彼らの優れた船舶技術と戦術は、地中海におけるイスラム勢力との対抗に大きな役割を果たしました。
現代の騎士団
1798年、ナポレオンのエジプト遠征の際にマルタはフランスに占領され、騎士団は島から追放されました。その後、騎士団は力を失いつつも存続し、現在では「マルタ騎士団」として知られる主に慈善活動に専念する組織となっています。国際法上の主体としても認知されており、独自の外交関係を持つ非常にユニークな存在です。
聖ヨハネ騎士団の歴史は、単なる軍事組織を超え、医療、宗教、文化保護に至るまで多岐にわたる活動を展開してきました。その遺産は、マルタだけでなく、ヨーロッパ全域にその影響を残しています。