国会議事堂放火事件(ライヒスターク火災事件) は、1933年2月27日の夜、ベルリンのドイツ国会議事堂(Reichstag)が炎に包まれた事件です。表面的には単なる火災事件でしたが、実際にはナチスが独裁体制を築くための大きな転機となり、ドイツ史の中でも特に重要な出来事として知られています。
背景:ヒトラー政権成立直後の不安定な政治情勢
1933年1月、アドルフ・ヒトラーは選挙で勝利したものの過半数を得られず、連立工作によってようやく首相の座に就きました。しかし、政権の基盤はまだ脆弱で、共産党や社会民主党といった勢力も強く残っていました。
ナチスは、3月5日に予定されていた総選挙を前に「共産主義の脅威」を国民に印象づけ、権力を強化する必要がありました。そうした中で起こったのが国会議事堂放火事件です。
事件の経過
1933年2月27日夜、国会議事堂が突如炎上しました。現場で逮捕されたのは、オランダ出身の失業者 マリヌス・ファン・デル・ルッベ。彼は共産主義者で、単独犯行を自白しましたが、当時から「ナチスが裏で仕組んだのではないか」という疑惑が広がりました。
ナチス高官の **ヨーゼフ・ゲッベルス(宣伝相)やヘルマン・ゲーリング(国会議長)**が事件を利用し、即座に「共産党の陰謀」と喧伝したのです。
緊急命令と独裁体制への布石
火災の翌日、1933年2月28日、ヒトラー政権は**「国民と国家を保護するための大統領令」**(通称:国会議事堂火災令)を発布しました。 この命令により:
- 言論・出版・集会の自由を停止
- 個人の自由(住居の不可侵・郵便の秘密など)を制限
- 政治的反対派の逮捕・投獄が合法化
事実上の憲法停止状態となり、民主主義は崩壊しました。
さらに、3月23日には**全権委任法(Enabling Act)**が可決され、国会の立法権は政府に移譲。こうしてヒトラーは合法的な手続きを経て独裁権力を掌握しました。
裁判とその影響
事件に関連して、ファン・デル・ルッベのほか、共産党の議員 エルンスト・トルグラー、さらにブルガリア人共産主義者 ゲオルギ・ディミトロフらが裁判にかけられました。
- ルッベは有罪となり、1934年に処刑。
- 他の被告は証拠不十分で無罪となり、特にディミトロフは堂々とした弁護で国際的に名を知られる存在となりました。
しかし、裁判の結果がどうであれ、ナチスは事件を「共産主義の陰謀」として利用し、反対派弾圧を加速させました。
歴史的評価
今日に至るまで、国会議事堂放火事件がナチスの自作自演だったのかは議論の対象となっています。
- 一部の研究者は「ルッベの単独犯」と考え、
- 他の研究者は「ナチスが背後で仕組んだ」と主張しています。
真相は完全には解明されていませんが、確かなことは、この事件がナチス独裁の引き金となったという点です。
まとめ
国会議事堂放火事件は、ドイツ史において「民主主義から独裁への転換点」と位置づけられます。 火災そのものよりも、その後のナチスによる政治利用こそが本質であり、この事件がなければヒトラーの独裁確立はもっと時間を要したかもしれません。