サムネイル画像

薔薇戦争を簡単に!主要な戦いと歴史の流れをまとめて紹介

イギリス·

薔薇戦争(Wars of the Roses, 1455–1485)は、15世紀のイングランドでおよそ30年間にわたり繰り広げられた王位継承をめぐる内戦です。戦ったのはイングランド王家の二つの分家――ランカスター家とヨーク家。両家の紋章がそれぞれ「赤い薔薇」と「白い薔薇」であったことから、後世に「薔薇戦争」と呼ばれるようになりました。

この内乱は単なる王位争いにとどまらず、地方を支配する大貴族たちの対立や、当時のイングランド社会における無秩序と混乱を象徴する出来事でもありました。最終的に戦争は1485年、ランカスター派のヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)が勝利し、テューダー朝の成立によって幕を閉じます。以後、約1世紀にわたりイングランドは比較的安定した王権のもとに統治されていきました。

背景 ― 王位継承をめぐる複雑な血筋

両家ともにイングランド王エドワード3世の血を引いており、いずれも王位継承権を主張できる立場にありました。すでに1399年からランカスター家の王が即位していましたが、15世紀半ばには国の統治が不安定になり、ヨーク家が王位を求めて動き出します。

その要因の一つが、ヘンリー5世の死後に王位を継いだヘンリー6世の弱さでした。幼くして即位したヘンリー6世は優柔不断で、後年には精神の不安定さも抱えることになります。さらに、彼の王妃マーガレット・オブ・アンジューが政治に強い影響力を持ち、周囲の有力貴族との対立を深めていきました。

戦争の始まり

1450年代になると、ヨーク公リチャード(Richard, 3rd Duke of York)が多くの大貴族を味方につけ、勢力を拡大します。その中心人物のひとりが「キングメーカー(王を作る男)」と呼ばれたウォリック伯リチャード・ネヴィルでした。1453年、国王ヘンリー6世が一時的に精神を病んだことから、ヨーク公は「摂政」として権力を握ります。しかしヘンリーが回復すると、再び王妃マーガレットの派閥が台頭。対立は避けられなくなり、1455年、セント・オールバンズの戦いでついに武力衝突が勃発しました。これが薔薇戦争の最初の戦いとされています。

薔薇戦争の新たな局面(1459年~1461年)

1459年、王妃マーガレットがヨーク公リチャードに対して公然と攻撃の準備を始めたことで、内戦は再び激化しました。ヨーク派(ヨーク家側)は最初こそブロア・ヒースの戦い(9月23日)で勝利を収めましたが、その後ルドフォード・ブリッジの戦い(10月12日)で敗北し、リチャード自身はアイルランドへ逃亡。ランカスター派はコヴェントリーで議会を開き、敵対勢力を「反逆者」として裁き、捕えられた者を容赦なく処刑しました。

この頃から戦いは一層苛烈さを増し、互いに一切の容赦をせずに相手を打ち倒すようになります。こうした冷酷な手法は、当時のイタリア・ルネサンスの政治思想の影響もありましたが、同時に百年戦争を通じて貴族たちが身につけた「戦争を日常とする気質」が反映されていたとも言われます。

ウォリック伯とヨーク派の反撃

ヨーク派の実力者ウォリック伯リチャード・ネヴィルはフランスで軍を立て直し、1460年6月に再びイングランドへ上陸。7月10日のノーサンプトンの戦いでランカスター軍を破り、ヘンリー6世を捕虜としました。ヨーク公リチャードはここで王位を要求しましたが、妥協の末「ヘンリー6世の死後に王位を継ぐ」という形で落ち着きました。これにより王太子エドワード(ヘンリー6世の息子)は継承権を奪われ、王妃マーガレットは徹底抗戦を決意します。

ヨーク公リチャードの最期と新王の登場

その後、北部で軍を整えたランカスター派はウェイクフィールドの戦い(1460年12月)でヨーク公を討ち取り、さらに1461年2月にはセント・オールバンズ第二次の戦いでウォリック軍を破りました。

しかし同じ時期、ヨーク公の長男エドワード(後のエドワード4世)はモーティマーズ・クロスの戦い(2月2日)で勝利し、ロンドンへ進軍。2月26日に首都へ入り、3月4日にはウェストミンスターで正式に「イングランド王エドワード4世」として即位しました。

タウトンの戦い ― 血塗られた決戦

新王エドワード4世は、ウォリック伯の残存兵力を合わせて北へ進軍。1461年3月29日、タウトンの戦いが行われました。この戦いは薔薇戦争の中でも最大規模で、数万人規模の死者を出した「イングランド史上最も血なまぐさい戦い」とされています。結果はヨーク派の大勝利となり、ランカスター派のヘンリー6世、王妃マーガレット、王太子エドワードはスコットランドへ逃亡しました。こうして戦争の第一幕はひとまず終息を迎え、イングランドは新たにエドワード4世の治世へと移行していきます。

「キングメーカー」ウォリック伯の台頭

ヨーク家が勝利を収め、エドワード4世が即位した後も、国内の混乱はすぐには収まりませんでした。そんな中、ヨーク派の最大の功労者であり、事実上の権力者となったのがウォリック伯リチャード・ネヴィルでした。彼は「キングメーカー(王を作る男)」と呼ばれるほど政治的手腕に優れ、1464年頃までは実際に国王以上の存在感を放っていました。

ランカスター派の壊滅

敗北後も、王妃マーガレットはフランスの支援を受けて北イングランドやウェールズで抵抗を続けました。しかしウォリック伯は徹底した軍事行動でこれを鎮圧します。特に1464年5月のヘクサムの戦いでヨーク派が大勝すると、多くのランカスター派貴族が処刑され、その勢力はほぼ壊滅しました。翌1465年には、ついに前王ヘンリー6世が捕らえられ、ロンドン塔に幽閉されることとなり、戦争の第一ラウンドは完全にヨーク派の勝利で幕を閉じたかに見えました。

内政改革と財政立て直し

ウォリック伯は軍事だけでなく内政にも力を発揮しました。国内の治安回復、司法制度の改善、王権の財政再建に取り組み、没収財産や倹約政策によって王室の財源を立て直そうとしました。その姿は「単なる武将」ではなく、国政全体を見渡す政治家としての才覚を示しています。

国際政治とフランスの思惑

一方で、イングランドは大陸ヨーロッパの複雑な国際政治の渦中にもありました。フランス王ルイ11世(在位1461–1483)は、強大なブルゴーニュ公国(シャルル豪胆公)を抑え込むため、イングランドを自らの外交戦略の駒として利用しようとしました。ウォリック伯もまたその外交工作に巻き込まれ、ヨーク家内部の不和へとつながっていくことになります。

エドワード4世とウォリック伯の決裂

ウォリック伯リチャード・ネヴィルは、ヨーク家勝利の最大の功労者でしたが、国王エドワード4世にとってその存在は次第に重荷となっていきました。ウォリックの政治運営は効率的であったものの、エドワードは彼の影響力に束縛されることを嫌い、ついには両者の関係が決裂してしまいます。

エドワード4世
エドワード4世

秘密の結婚 ― 不協和音の始まり

1464年、エドワード4世はウォリック伯の意向を無視し、ランカスター派と縁のあるエリザベス・ウッドヴィルと秘密裏に結婚しました。ウッドヴィル家は王の側近として力を持つようになり、ウォリック伯の地位を脅かす存在に。これが両者の溝を決定的に深めます。

公然たる対立へ

1467年、エドワードはウォリック伯の弟で大法官を務めていたジョージ・ネヴィルを解任し、さらにウォリックが交渉していたフランスとの条約を破棄。代わりに宿敵ブルゴーニュ公国と同盟を結びました。外交方針を真っ向から否定されたウォリックは、ついに国王への反抗を決意します。

ロビン・オブ・レデスデールの乱と国王幽閉

1469年、ウォリック伯はヨークシャーのジェントリ(地方地主層)や民衆を扇動し、「ロビン・オブ・レデスデールの乱」と呼ばれる蜂起を引き起こしました。同年7月、エッジコートの戦いで王軍を破り、エドワード4世を捕虜とします。王妃エリザベスの父や兄らは処刑され、王の権威は大きく失墜しました。

追放と「王の作り替え」

しかしエドワードは翌1470年3月までに支配権を回復し、ウォリック伯と国王の弟クラレンス公ジョージを国外へ追放。二人はフランスへ逃れ、そこでフランス王ルイ11世の仲介により、かつての宿敵マーガレット王妃(ランカスター派)と和解します。

同年9月、ウォリック伯はランカスター派と共にイングランドへ帰還。見事にエドワード4世を打倒し、幽閉されていたヘンリー6世を再び玉座に据えました。こうしてウォリック伯は「ヘンリー6世の摂政」として事実上の支配者となり、わずか半年間ながら王国を動かす立場に立ちました。エドワード4世は追われ、オランダ(当時はブルゴーニュ領)へと亡命します。

エドワード4世の逆襲と薔薇戦争の終結

ウォリック伯が一時的にヘンリー6世を復位させたものの、その支配は脆弱でした。かつての宿敵だったランカスター派からは信用されず、また多くのヨーク派も心情的に受け入れられなかったためです。その隙を突き、亡命していたエドワード4世はブルゴーニュ公国の支援を受けて1471年3月に帰国しました。

バーネットの戦い ― 「キングメーカー」の最期

4月14日、ロンドン近郊でエドワード軍とウォリック軍が激突しました(バーネットの戦い)。この戦いでエドワードは巧みに戦況を制し、かつて敵対していた弟クラレンス公をも取り込むことに成功。ウォリック伯は討ち死にし、「王を作る男」の時代は幕を閉じました。

テュークスベリーの戦いとランカスター家の滅亡

同じ日にフランスから帰国した王妃マーガレットと王太子エドワードは、ウェールズを目指して進軍しました。しかしエドワード4世が先回りし、5月4日のテュークスベリーの戦いでランカスター軍を壊滅させます。王太子は戦死し、マーガレットも捕らえられました。さらにその直後、ロンドン塔に幽閉されていたヘンリー6世も殺害され、ランカスター家の直系は完全に途絶えました。

エドワード4世は以後安定した治世を築き、1483年に死去するまで王位を保ち続けました。

リチャード3世の簒奪とボズワースの戦い

しかし、エドワード4世の死後に王位を継いだ幼王エドワード5世は、叔父リチャードによって排除され、リチャード3世が即位します。この強引な簒奪は多くのヨーク派の反感を買い、最後の望みとして「ランカスター家の遠縁」にあたるヘンリー・テューダーが担ぎ上げられました。

フランスの支援とヨーク派の離反を得たヘンリーは、1485年8月22日のボズワースの戦いでリチャード3世を討ち取り勝利。ここに30年に及ぶ薔薇戦争は決着を迎えます。翌1486年、ヘンリー(ヘンリー7世)はエドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークと結婚し、両家の血筋を統合。新たにテューダー朝が成立しました。

戦争の余韻

一部の歴史家は、その後の1487年に起きた「ランバート・シムネルの乱」(ヨーク派残党による反乱)をもって薔薇戦争の最終局面とみなします。しかしいずれにせよ、この内戦の終結によってイングランドは安定へと向かい、16世紀の強力な王権の基盤が築かれていきました。

🔥 同じカテゴリーの記事
最終更新日

\ おすすめのアクティビティ /