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ヴァイマル共和国とは?歴史・特徴・崩壊までをわかりやすく解説

ドイツ·

ドイツ帝国の崩壊と皇帝の退位

1918年11月9日、第一次世界大戦で敗北が決定的となったドイツ帝国は、ついに 皇帝ヴィルヘルム2世 が退位を余儀なくされました。これにより1871年以来続いてきた「帝政ドイツ(ドイツ帝国)」は崩壊します。

その同じ日、当時の宰相であった バーデン大公マクシミリアン が辞任し、社会民主党(SPD)の指導者 フリードリヒ・エーベルト に後任を託しました。エーベルト自身は立憲君主制を望んでいましたが、すでにバイエルンでは急進的な社会主義者が「バイエルン共和国」を宣言しており、国内各地で革命運動が拡大していました。

さらに、同じSPDの政治家 フィリップ・シャイデマン が、エーベルトに相談することなく国会議事堂(ライヒスターク)のバルコニーから「ドイツ共和国の成立」を宣言してしまいます。こうして、既成事実として「共和国」が誕生しました。エーベルトは極端な左翼勢力に主導権を握られることを恐れ、やむなくこの流れを受け入れることになります。


休戦協定と「背後からの一突き」伝説

11月10日、エーベルトは独立社会民主党(USPD)の フーゴー・ハーゼ とともに「人民代表評議会」の共同議長に就任し、暫定政府を樹立しました。その翌日、ドイツ代表団はフランスの コンピエーニュの森・レトンドの鉄道車両 において連合国と休戦協定を結び、正式に第一次世界大戦の戦闘は終了します。

ただし、この降伏は軍事的現実に基づいたものでしたが、後にドイツ国内では「軍は前線で敗れていなかったのに、文民政治家が背後から国を刺したのだ」という 「背後からの一突き(ドルヒシュトース伝説)」 が広がります。この言説は右派勢力によって強調され、ヴァイマル共和国を「裏切りの産物」と非難する大きな要因となりました。


スパルタクス団の蜂起と内乱

1918年末から1919年初頭にかけて、急進左派の スパルタクス団 が各地で武装蜂起を起こしました。中心人物は革命家 ローザ・ルクセンブルクカール・リープクネヒト でした。彼らはロシア革命に影響を受け、ドイツでも評議会制による社会主義国家の樹立を目指していました。

しかし、エーベルトは急進左派の影響拡大を恐れ、軍部と協力する道を選びます。ここで大きな役割を果たしたのが、退役軍人らで組織された私設軍隊 フライコール(義勇軍) です。フライコールは暴力的な手段で蜂起を鎮圧し、1919年1月にはルクセンブルクとリープクネヒトを惨殺しました。

この出来事により、社会民主党は共産主義者から「裏切り者」と非難され、左派内部で深い亀裂が生まれます。一方で、急進左派の力は抑えられたものの、エーベルト政権は「軍と右派に依存する政権」というイメージを持たれることになりました。


初の国民選挙とヴァイマル憲法制定へ

1919年1月19日、ドイツ史上初めて 女性参政権 を含む普通選挙による国民議会選挙が実施されました。この選挙で社会民主党(SPD)が第一党となり、ヴァイマルの地に議会が招集されました。

ここで起草されたのが、後に「ヴァイマル憲法」と呼ばれる新しい憲法です。この憲法は 世界で最も民主的な憲法の一つ と称されるほど進歩的なもので、比例代表制・大統領制・広範な市民権が盛り込まれました。

こうして、1919年8月11日、正式に ヴァイマル共和国 が成立することになります。

了解しました。では今回は ヴァイマル憲法(1919年)とその特徴 について、日本人向けに整理して記事を書きます。

ヴァイマルでの国民議会

1919年2月6日、第一次世界大戦の敗戦後に招集された 国民議会 が、文化都市ヴァイマルで開かれました。これはベルリンが革命と混乱に揺れていたため、安全な場所として選ばれたものです。

議会冒頭で大統領となった フリードリヒ・エーベルト は演説を行い、旧帝政との決別を強調するとともに、連合国に対し「新しい民主的ドイツを過酷な賠償で縛らないでほしい」と訴えました。2月11日には正式にエーベルトが大統領に選出され、翌12日には フィリップ・シャイデマン を首班とする連立内閣(中央党・ドイツ民主党を含む)が成立します。


ヴァイマル憲法の制定

国民議会の最重要課題は新しい憲法の制定でした。その草案をまとめたのは、民主党(DDP)の政治家で憲法学者の フーゴー・プライス です。彼はプロイセンを解体し中央集権的な国家を目指しましたが、最終的にはドイツ帝国時代の枠組みを踏襲しつつも権限を大幅に強化した 連邦制の共和国 として成立しました。

憲法は1919年8月11日に公布され、ここから「ヴァイマル共和国」が正式にスタートします。


連邦制と議会制度

  • 共和国の下には 17の州(ラント) が置かれました。

    • 最大は プロイセン(人口3,800万人)、次いで バイエルン(700万人)
    • 最小は シャウムブルク=リッペ(わずか48,000人)
    • 新たに誕生した州としては、7つの小領邦を合併して成立した テューリンゲン があります。
  • 各州は ライヒスラート(連邦参議院) に代表を送りましたが、ライヒスターク(国会)に従属する位置づけとなりました。つまり、国の最高意思決定機関はライヒスタークであり、政府はそこに対して責任を負う仕組みです。


民主的な選挙制度

ヴァイマル憲法は当時としては極めて民主的で、次のような特徴を持ちました。

  • 男女普通選挙:20歳以上のすべての男女に選挙権を付与
  • 比例代表制:各党が得票率に応じて議席を獲得できる制度
  • 国民投票と国民発議:国民が直接立法に参加できる仕組み

これにより、ドイツは世界で最も民主的な国家のひとつと見なされました。女性参政権が導入されたことも注目すべき点です。

大統領に与えられた強大な権限

ヴァイマル憲法の大きな特徴のひとつは、議会(ライヒスターク)を補う存在として 大統領に強大な権限が付与されたこと です。

  • 国民による直接選挙:大統領は国民の選挙で選ばれ、任期は7年。再選も可能。
  • 外交と軍の最高権限:条約締結や軍の最高司令官としての権限、将校の任免権を持つ。
  • 議会解散権と国民投票権:ライヒスタークを解散したり、法律を国民投票にかけたりできる。
  • 緊急権限(第48条):国家の治安や秩序が危機にあると判断した場合、基本的人権を停止し、強制的な措置を取ることが可能。

この第48条は当時の内乱状態を想定した非常手段でしたが、後にナチス政権が独裁を合法化する根拠として利用されることになります。


民主主義の進歩と同時に抱えた矛盾

ヴァイマル憲法は、ドイツ史上初めて民主主義の確固たる基盤を築いた憲法であり、女性参政権や労働者の権利保障など先進的な内容を含んでいました。しかし、同時にいくつかの重大な矛盾を抱えていました。

  1. 比例代表制の問題

    • 小党が乱立しやすく、議会で安定多数を作ることが難しかった。
    • そのため政権交代が頻繁に起こり、政府は脆弱になりやすかった。
  2. 大統領権限の強さ

    • 民主的な議会制と両立しにくく、大統領が「事実上の独裁権」を持ちうる仕組みとなっていた。

社会経済改革の停滞

共和国成立当初は「社会の大改革」への期待が高まりましたが、現実には大きな変化は実現しませんでした。

  • 産業の国有化計画 石炭・電力・カリウム(肥料)産業などの社会化が議論されましたが、実効性は乏しく、大企業や財閥(カルテル)の支配はそのまま続きました。

  • 農地改革の不徹底 大土地所有の解体も進まず、地主層の力は温存されました。

その結果、労働者階級の期待は裏切られ、一部は急進左派に流れていきました。一方で経済権力を握る産業資本家や地主層は共和国を支持せず、むしろ権威主義的な体制を志向する動きも強まりました。


労働者の権利とその限界

ヴァイマル共和国下では、労働者の地位は一定の改善が見られました。

  • 8時間労働制 の導入
  • 団結権・団体交渉権 の保障
  • 工場委員会(ワークス・カウンシル)制度:各工場で労働者代表を選出し、経営に関与する仕組み

しかし、これらの試みは資本家側の強い抵抗により実効性を欠きました。1920年に設立された「経済議会(ライヒスヴィルシャフツラート)」も労使対等の組織として期待されましたが、機能不全に陥りました。

ドイツ代表団と連合国の溝

1919年4月末、ドイツ代表団はパリ郊外の ヴェルサイユ宮殿 に派遣されました。ドイツ側はウィルソン大統領の「十四か条」に基づいた、公正な講和を期待していました。しかし連合国は交渉の余地を与えず、5月7日に突き付けられた条約草案は、ドイツ国民にとって屈辱的かつ苛烈なものでした。


領土の大幅な喪失

条約により、ドイツは広大な領土を失いました。

  • アルザス=ロレーヌ → フランスへ返還
  • 上シレジア・ポズナン・西プロイセン → ポーランドへ割譲
  • 北シュレースヴィヒ → デンマークへ割譲
  • ダンツィヒ(グダニスク) → 自由都市化
  • メーメル地方 → フランスの管理下に置かれ、後にリトアニアへ
  • 全ての植民地 → 連合国に分割委任統治

ヨーロッパ内だけで 約7万人の人口を抱える7万km²以上の領土 を失い、経済的・戦略的打撃は甚大でした。さらに オーストリアとの併合禁止 も規定され、ドイツ人の「民族統一」の夢は絶たれました。


軍事制限と経済的負担

  • 軍備制限

    • 陸軍は 10万人規模 に縮小
    • 徴兵制度廃止
    • 参謀本部解体
    • 艦隊・航空機の保有制限
  • 経済的制裁

    • 賠償金の暫定支払い200億マルク
    • 外国資産の没収、商船隊の大幅削減
    • フランスによる ザール地方の石炭鉱山管理(15年間)
    • ラインラント非武装化と連合国軍による占領

さらに第231条、いわゆる 「戦争責任条項」 によって、戦争の全責任をドイツとその同盟国に負わせる内容が盛り込まれました。


ドイツ国内の反発

条約内容が公表されると、全政党が一致して抗議し、国民は激しい屈辱感と怒りに包まれました。とりわけ「ドイツ軍は前線で敗北したのではなく、背後から文民政治家や社会主義者に裏切られたのだ」という 「十一月の犯罪者」「背後からの一突き」伝説 が右派によって繰り返し唱えられます。

内閣を率いていた フィリップ・シャイデマン は署名を拒否し辞任。後任の グスタフ・バウアー 内閣が最終的に受諾せざるを得ませんでした。1919年6月23日、国民議会は侵攻回避のため署名を承認し、6月28日に条約が調印されました。


ヴァイマル共和国への影響

  • 新政権は 屈辱的講和の責任を一身に背負わされた
  • 本来は帝政の軍事指導部が引き起こした敗戦にもかかわらず、共和国の指導者たちは「祖国を売った裏切り者」として攻撃された
  • 結果的に、共和国は誕生直後から 正統性の危機 に直面し、極右・極左の台頭を招く土壌となった

1920年の選挙と政局の変化

第一次世界大戦後の共和国は、社会民主党(SPD)、中央党、ドイツ民主党(DDP)による「ヴァイマル連合」を基盤として成立しました。しかし、1920年6月の総選挙では情勢が一変します。

  • SPDや中央党 など共和国を支える政党が大きく議席を減らす
  • 右派のドイツ国民党(DNVP)やドイツ人民党(DVP) が伸長
  • 左派の独立社会民主党(USPD) も支持を拡大

これにより、ヴァイマル共和国初期の「SPD主導体制」は終わりを迎え、以降は不安定な連立政権が続くことになります。1920年6月末には、中央党の コンスタンティン・フェーレンバッハ が首相となり、初めてドイツ人民党(DVP、グスタフ・シュトレーゼマン派)を含む新連立政権が誕生しました。


シレジア問題と国際的孤立

1919~21年には、ドイツと新生ポーランドの間で 上シレジア(工業地帯) の帰属をめぐる争いが続きました。

  • 1921年3月に行われた住民投票では 全体ではドイツ残留派が多数 を占めたものの、地域ごとに大きな差が出ました。
  • ドイツは「全域ドイツ帰属」を主張しましたが、条約の取り決めを無視しているとしてポーランドが反発し、武力蜂起へ。
  • 連合国は意見が分かれ(フランスはポーランド支持、イギリスは調停志向)、最終的に 国際連盟 に委ねられました。

結果、地域の 3分の2はドイツ領 とされましたが、主要な炭鉱・工業地帯はポーランド領 に編入され、国境地帯に多くのドイツ人が取り残されることとなりました。この決定はドイツ国内で大きな不満と憤りを呼び、共和国の求心力をさらに弱めました。


賠償金問題と政権の動揺

1921年4月、連合国の賠償委員会は 総額1320億金マルク という巨額の賠償金をドイツに課しました。これは当時の経済力では到底不可能な額であり、フェーレンバッハ内閣は辞任を余儀なくされます。

後任の首相となったのは中央党の ヨーゼフ・ヴィルト で、再び「ヴァイマル連合」に基づく政権が成立しました。ヴィルトは議会の説得に成功し、最終的に賠償受諾を決定しますが、これは国民の間に「屈辱」と「共和国への不信感」を一層広げる結果となりました。


フランスとの対立とルール占領(1923年)

ドイツは度重なる経済危機により賠償金の支払いを滞らせます。フランスはこれを口実にたびたびドイツ国内へ軍を進め、緊張は高まりました。

そして1923年1月、フランスとベルギーは「木材供給の不履行」を理由に ルール工業地帯を占領 します。これはドイツ経済の心臓部を直撃し、国民の反発は頂点に達しました。

占領に対してドイツ政府は「消極的抵抗政策(ストライキや生産停止)」を呼びかけますが、それが後に ハイパーインフレーション という未曾有の経済危機を引き起こすことになります。

国際的孤立の中での選択

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によりドイツは軍事的・経済的に厳しく制約され、さらにフランスとの対立から国際的に孤立していました。そんな中、同じく欧州の「はみ出し者」であった ソビエト連邦 との接近が現実味を帯びてきます。

この発想は左派だけでなく、右派の一部からも支持されました。彼らは「フランスとの再戦は避けられない」と考えており、その際に有力な同盟相手を必要としていたのです。


経済交渉から軍事協力へ

1921年、ドイツとソ連の間で経済交渉が始まり、一定の成果を収めました。さらに陸軍の司令官であった ハンス・フォン・ゼークト将軍 もソ連との協力を強く支持しました。

そして1922年4月16日、イタリアのラパロで 独ソ間の友好条約(ラパロ条約) が締結されます。


条約の内容

  • 賠償請求の相互放棄 ドイツとソ連は、互いに戦時賠償請求をしないことを約束。
  • 経済関係の拡大 両国間の貿易や経済交流を促進する。

表向きにはシンプルな内容でしたが、実際にはそれ以上の意味を持っていました。


秘密の軍事協力

ラパロ条約を機に、両国は秘密裏に軍事協力を進めます。

  • 軍事演習の共同実施:ドイツ軍将校がソ連で実地訓練を受ける
  • 兵器の開発実験:ヴェルサイユ条約で禁止されていた 戦車・航空機 の研究開発をソ連領内で実施
  • 情報交換と技術協力

こうした活動は公式には存在しないものでしたが、ヴェルサイユ体制を迂回し、ドイツ軍に再建の機会を与えるものでした。


国際社会への衝撃

ラパロ条約は、フランスやイギリスにとって 青天の霹靂 でした。両国はドイツの国際的孤立を前提に戦後秩序を築いていたからです。怒りと警戒感を示したものの、結局は有効な対抗措置を取ることができませんでした。

結果として、この条約はフランスのドイツへの不信を一層強めることとなり、後の外交関係に長く影を落としました。

国際的孤立の中での選択

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によりドイツは軍事的・経済的に厳しく制約され、さらにフランスとの対立から国際的に孤立していました。そんな中、同じく欧州の「はみ出し者」であった ソビエト連邦 との接近が現実味を帯びてきます。

この発想は左派だけでなく、右派の一部からも支持されました。彼らは「フランスとの再戦は避けられない」と考えており、その際に有力な同盟相手を必要としていたのです。


経済交渉から軍事協力へ

1921年、ドイツとソ連の間で経済交渉が始まり、一定の成果を収めました。さらに陸軍の司令官であった ハンス・フォン・ゼークト将軍 もソ連との協力を強く支持しました。

そして1922年4月16日、イタリアのラパロで 独ソ間の友好条約(ラパロ条約) が締結されます。


条約の内容

  • 賠償請求の相互放棄 ドイツとソ連は、互いに戦時賠償請求をしないことを約束。
  • 経済関係の拡大 両国間の貿易や経済交流を促進する。

表向きにはシンプルな内容でしたが、実際にはそれ以上の意味を持っていました。


秘密の軍事協力

ラパロ条約を機に、両国は秘密裏に軍事協力を進めます。

  • 軍事演習の共同実施:ドイツ軍将校がソ連で実地訓練を受ける
  • 兵器の開発実験:ヴェルサイユ条約で禁止されていた 戦車・航空機 の研究開発をソ連領内で実施
  • 情報交換と技術協力

こうした活動は公式には存在しないものでしたが、ヴェルサイユ体制を迂回し、ドイツ軍に再建の機会を与えるものでした。


国際社会への衝撃

ラパロ条約は、フランスやイギリスにとって 青天の霹靂 でした。両国はドイツの国際的孤立を前提に戦後秩序を築いていたからです。怒りと警戒感を示したものの、結局は有効な対抗措置を取ることができませんでした。

結果として、この条約はフランスのドイツへの不信を一層強めることとなり、後の外交関係に長く影を落としました。

左派からの挑戦 ― 共産主義蜂起

第一次世界大戦後のドイツは、革命の余波と社会不安に揺れていました。 1920年春、共産主義者による ルール地方での労働者蜂起 が勃発。鉱山労働者や左派勢力が武装し、警察や軍部、さらにはフライコール(義勇兵組織)と激しく戦いましたが、4月初頭には鎮圧されました。

翌1921年3月、中央ドイツのマンスフェルト地区でも鉱夫の反乱が発生。共産党(KPD)はゼネストを呼びかけましたが、支持を広げられず、速やかに沈静化しました。

こうした動きは、ソビエト型の革命がドイツで再現されるのではないかという恐怖を社会に広げました。しかし、社会民主党(SPD)と労働組合運動 が強い防波堤となり、本格的な共産主義革命の拡大は阻止されました。さらに1920年末には独立社会民主党(USPD)の左派が共産党に合流し、残った多数派がSPDに接近。1922年には両者の統合が実現し、左派内部の勢力再編が進みました。


右派からの挑戦 ― クーデターとテロ

より大きな脅威となったのは 右派勢力 でした。 1920年3月、ベルリン駐留軍を率いる ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ将軍 と東プロイセンの官僚 ヴォルフガング・カップ が中心となり、フライコール部隊の「エアハルト旅団」と共にクーデター(カップ一揆)を決行。数日間ベルリンを掌握しました。

しかし、彼らが期待した軍部や保守政党の全面的支持は得られず、労働組合の呼びかけによる ゼネスト が全国規模で成功。経済・交通が麻痺したことで、反乱はすぐに頓挫しました。


過激派と政治テロ

議会内では国家人民党(DNVP)が共和国攻撃を続けましたが、それすら「穏健すぎる」と見なす勢力が存在しました。

  • 北部の ドイツ人種自由党
  • ミュンヘンを拠点とする アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)

これらの団体は 反ユダヤ主義・反社会主義・過激な民族主義 を掲げ、共和国打倒を公然と主張。多くの元兵士を取り込んだ準軍事組織(突撃隊の前身など)は正規軍の一部将校とも結びつき、「いずれ共和国を打倒する予備軍」と見なされていました。

こうした地下組織の一つ、オルガニザツィオン・コンスル(Organisation Consul) は暗殺を繰り返し、特に共和国の重鎮を狙いました。

  • 1921年8月:財務相 マティアス・エルツベルガー 暗殺
  • 1922年6月:外相 ヴァルター・ラーテナウ 暗殺

特に問題視されたのは、右派テロに対する司法の寛大さ でした。左派運動には厳罰が科される一方で、右派の政治的殺人は軽い刑や見逃しで済まされることが多く、共和国の法秩序を大きく揺るがしました。


バイエルン ― 右派の牙城

南ドイツのバイエルン州は、反共和国的な気運が特に強い地域でした。 カトリック政党 バイエルン人民党 はヴァイマル体制に否定的で、旧王家ヴィッテルスバッハ家の復位を望む声すら公然と唱えていました。

ミュンヘン政府は過激派への取り締まりをほとんど行わず、ヒトラー率いるナチ党を含む右翼勢力は バイエルンを拠点 に活動を拡大。こうして1920年代を通じて、共和国の存続にとって深刻な脅威となっていきました。

マルクの崩壊

第一次世界大戦後のドイツ経済は、戦後賠償金の支払い、資本流出、貿易の停滞などが重なり、深刻な悪化をたどりました。戦時中から続く「赤字財政を紙幣増刷で賄う」政策は止まらず、通貨価値は雪だるま式に下落。

  • 1914年以前:1ドル=4.2マルク
  • 1922年:1ドル=7,000マルク以上

すでに1922年には「制御不能」と呼べるインフレが始まっていましたが、真の頂点は1923年に訪れます。


フランス・ベルギーによるルール占領

1922年末、ドイツは賠償金の納入を滞らせました。これを口実に、フランスとベルギーは 1923年1月、工業地帯ルール地方を占領。ここは炭鉱と製鉄を中心とするドイツ経済の心臓部であり、その打撃は国家全体に及びました。

当時の宰相 ヴィルヘルム・クーノ(Wilhelm Cuno)は「消極的抵抗(passiver Widerstand)」を呼びかけ、ルール地方の労働者・企業は生産や輸送を拒否。さらに賠償の実物納入を全面的に停止しました。

フランス・ベルギー占領軍はこれに対し、

  • 大量逮捕や追放
  • 工場・鉱山の接収
  • 封鎖によるラインラント経済の遮断

など強硬策で応じました。事態は事実上の「非公式戦争」と化し、住民は破壊活動やゲリラ的抵抗に走りました。


ハイパーインフレの頂点

ルール封鎖と経済麻痺は通貨価値を完全に崩壊させました。為替レートは暴落を続け、次のように推移します:

  • 1923年7月1日:1ドル=16万マルク
  • 1923年10月1日:1ドル=2億4200万マルク
  • 1923年11月20日:1ドル=4兆2000億マルク

もはや紙幣は燃料や紙切れ同然となり、人々はパン一斤を買うために札束をリヤカーで運ぶような有名な光景が広がりました。商取引は現金を避けて 物々交換 が中心となり、各地で 食料暴動 が発生しました。

この過程で最も大きな打撃を受けたのは、中産階級や年金生活者 でした。長年の貯蓄は一瞬で無価値となり、社会的不満は爆発。労働者階級も実質賃金の急落に苦しみました。 一方で、借金を抱えていた企業や輸出業者の一部はインフレを利用して利益を得ることができ、社会格差をさらに広げました。

ルール占領とハイパーインフレ(1923年)

フランスとベルギーによるルール占領は、ドイツ経済を事実上麻痺させ、通貨は「紙くず」と化しました。

  • 1923年11月には、1ドル=4兆2000億マルク という天文学的な水準に。
  • 人々は日常の買い物すらままならず、社会不安が爆発。

中産階級の没落と、国民全体の「共和国への不信感」が深まる契機となりました。


シュトレーゼマンとレンテンマルク(1923–24年)

この絶望的な状況を立て直したのが、宰相 グスタフ・シュトレーゼマン でした。

  • 占領地での「消極的抵抗」を停止
  • 新通貨 レンテンマルク を導入(1923年11月)
  • 通貨改革と財政引き締めにより、ハイパーインフレを終息

さらに、1924年には ドーズ案 によって賠償金支払いが整理され、アメリカからの資本流入で経済は急速に安定しました。


黄金の二十年代(1924–29年)

この安定期は「ヴァイマル文化の最盛期」として記憶されています。

  • 経済面:ドイツ工業は復活し、失業率も改善
  • 外交面:1925年 ロカルノ条約 によりフランス・ベルギーとの国境を保証、翌年ドイツは国際連盟に加盟
  • 文化面:ベルリンはジャズ、映画、モダンアートの中心に。バウハウスや表現主義映画が開花

一時的に「安定した民主国家」としての姿を取り戻したのです。


大恐慌と政局の不安定化(1929–32年)

しかし、1929年の 世界恐慌 はヴァイマル経済を直撃しました。

  • アメリカ資本の引き揚げで銀行が破綻
  • 失業者は1932年に 600万人以上 に達する
  • 国民の不安と怒りは急進政党へ流れた

この中で、保守層は大統領 パウル・フォン・ヒンデンブルク に権限を集中させ、国会の多数決を回避して 大統領令(憲法48条) に頼る政治が常態化しました。


極右・極左の台頭

  • 左翼では共産党(KPD)が勢力を伸ばす一方、
  • 右翼では ナチ党(NSDAP) が経済不安と「ヴェルサイユ条約への怒り」を利用し急速に拡大。

1930年の総選挙でナチ党は第2党へ、1932年には最大政党となります。街頭では衝突が相次ぎ、共和国は「議会制の機能不全」と「暴力政治」に飲み込まれていきました。


崩壊への道(1932–33年)

1932年の大統領選挙では、ヒンデンブルクが再選を果たしましたが、ナチ党の党首 アドルフ・ヒトラー は国民の強い支持を背景に政権入りを要求。保守派のフランツ・フォン・パーペンらは、ナチ党を「利用できる」と誤信し、ヒンデンブルクを説得しました。

そして 1933年1月30日、ヒトラーは首相に任命されます。 ヴァイマル共和国はここに幕を下ろし、ナチ独裁体制への道が開かれました。


まとめ

ヴァイマル共和国は、第一次世界大戦後の 民主主義の試み でした。

  • 世界初期の 女性参政権導入
  • 社会保障の拡充
  • 文化と芸術の黄金時代

これら輝かしい成果を残しながらも、

  • ヴェルサイユ条約の屈辱
  • 経済危機とハイパーインフレ
  • 議会制の分裂と不安定

といった要因が重なり、わずか14年で崩壊。最終的にナチス政権を招き、第二次世界大戦の悲劇へとつながっていきました。

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