フィリップ4世(Philip IV, 1268年〜1314年) は、1285年から1314年までフランス王、そして1284年から1305年までナバラ王として在位した人物です。端正な容姿から「美王(le Bel)」と呼ばれましたが、その治世は教皇との対立、度重なる戦争、国内統治の改革など、波乱に満ちていました。
幼少期と即位まで
フィリップ4世は1268年にフォンテーヌブロー城で生まれました。父はフィリップ3世、祖父は聖王として名高いルイ9世です。母イザベラ・アラゴンは彼が3歳の時に亡くなり、孤独な幼少期を過ごしました。
1276年に兄ルイが急死すると、突然フランス王位の継承者となります。毒殺の噂や継母マリー・ド・ブラバントへの疑念が漂う中で育ったフィリップは、人を容易に信用しない冷徹な性格を形成していきました。
彼の精神的な支えとなったのは聖祖父ルイ9世の理想像であり、「神が授けた王の使命」を強く意識して政治に臨むようになります。16歳でナバラ女王ジャンヌと結婚し、翌1285年に父の死去に伴いフランス王として即位しました。
教皇との対立とアヴィニョン捕囚
フィリップ4世の治世で最も有名なのは、ローマ教皇庁との激しい対立です。特に教皇ボニファティウス8世との衝突は深刻で、課税や聖職者の権利をめぐる争いは頂点に達しました。最終的に教皇庁はフランス王の影響下に置かれ、1309年には教皇庁がローマからアヴィニョンに移転(いわゆるアヴィニョン捕囚)する事態となります。これは中世ヨーロッパの宗教と政治の関係に大きな転換をもたらしました。
イングランドとの戦争と和平
即位後まもなく、フィリップはイングランド王エドワード1世との対立に突入します。1294年に始まった戦争は10年間続き、膨大な財政負担をフランスにもたらしました。
最終的に1303年の講和条約で、フィリップの娘イザベルが後のエドワード2世と結婚することで和平が成立します。この婚姻同盟は両国の一時的な安定をもたらしましたが、後に百年戦争へとつながる布石ともなりました。
フランドル戦争と「金拍車の戦い」
フィリップ4世のもう一つの大きな軍事行動は、フランドル伯国との戦争でした。1302年の「金拍車の戦い」ではフランス軍が市民兵に大敗し、貴族の権威が大きく傷つきます。しかし1304年のモンス=アン=ペヴェルの戦いで巻き返し、1305年にはフランドルに対して重い賠償と屈辱的な和平条約を結ばせました。
この戦費を賄うためにフィリップは全国会議(身分制会議)を召集し、課税と引き換えに特権を交渉するという手法を用いました。この政策は後にフランス王権の財政基盤強化に活かされていきます。
フィリップ4世の遺産
フィリップ4世は1314年にフォンテーヌブローで死去しました。彼の3人の息子(ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世)は次々にフランス王となりますが、いずれも男子継承に恵まれず、カペー朝は断絶。後の百年戦争の原因となる王位継承問題を残しました。
彼の冷徹で計算高い政治姿勢は「鉄の国王」とも評され、フランス絶対王政の先駆けともいわれます。
教皇庁との対立 ― ボニファティウス8世との衝突
フィリップ4世の治世を語る上で欠かせないのが、ローマ教皇ボニファティウス8世との激しい対立です。これは単なる宗教上の争いではなく、王権と教権の優位をめぐる中世ヨーロッパ全体の権力闘争でした。
聖職者課税をめぐる衝突
1296年、ボニファティウス8世は教書「Clericis laicos」を発布し、教皇の承認なしに聖職者へ課税することを禁止しました。これは戦争資金を必要としていたフィリップにとって大きな打撃であり、彼はイングランド王エドワード1世とともに強硬な報復措置をとります。結局ボニファティウスは譲歩し、必要に応じて世俗君主が聖職者に課税できると認めざるを得ませんでした。
さらに1297年には、フィリップを懐柔するためにボニファティウスはフィリップの祖父ルイ9世(聖ルイ)を列聖(聖人に認定)しました。しかしその後も教皇への不信感は強まり、フランス国内ではボニファティウスに対する異端的な噂や非難が広がっていきました。
司教逮捕事件と公開対決
1301年、フィリップはパミエ司教ベルナール・セセを反逆罪の疑いで逮捕します。これに激怒したボニファティウスは、フランス王の統治そのものに挑戦する姿勢を見せ、聖職者をローマに召集し、国王の支配を議論させようとしました。
フィリップはこれに真っ向から対抗し、教皇の教書を焼き捨て、王国は神以外のいかなる権力にも服さないと宣言します。1302年には大規模な身分制会議を開き、国内の支持を固めました。
同年、ボニファティウスは有名な教書「Unam sanctam」を発布し、教皇の権威が全てに優越すると断言します。これはフランス王権に対する正面からの挑戦でした。
アナーニ事件 ― 教皇の屈辱
1303年9月、フィリップの側近ギヨーム・ド・ノガレがイタリアのアナーニでボニファティウスを急襲・拘束するという事件が起きます(アナーニ事件)。この時、教皇は数日間囚われの身となり、暴行や略奪を受けましたが、町の住民によって解放されます。
ボニファティウスは翌月に急死し、ついにフィリップに裁かれることはありませんでした。しかし彼の死後も、フィリップは教皇の名誉を徹底的に攻撃し続け、その後任の教皇庁に強い影響力を及ぼしていきます。
アヴィニョン捕囚への道
1305年にガスコーニュ出身のクレメンス5世が教皇に即位すると、フィリップの意向を受け、教皇庁をローマからフランス南部のアヴィニョンへ移転しました。これが有名な「アヴィニョン捕囚(1309–1377年)」の始まりであり、ローマ教皇庁は70年近くフランス王権の影響下に置かれることになります。
晩年の宗教的傾倒と葛藤
1304年以降、戦争が一段落すると、フィリップは次第に良心と道徳の問題に強く関心を抱くようになりました。
- 1306年には貨幣改革を実施し、民衆や聖職者の不満を抑えようとしました。
- クレメンス5世からは、過去の戦争で聖職者から徴収した財産を返還しなくてもよいとの免除を得ています。
- さらにフランドルが和平条約を守らない場合には、教会制裁を加える権利も承認させました。
1305年に王妃ジャンヌが死去すると、フィリップは再婚せず、時には王位を退き十字軍の総帥になることまで考えたと伝えられています。
まとめ
フィリップ4世は、容姿端麗で「美王」と称されながらも、その実像は権力拡大のために妥協を許さない冷酷な君主でした。教皇庁をフランスの影響下に置いたこと、封建制を制限して王権を強化したことは、後のフランス国家の形成に大きな影響を与えています。
彼の治世を知ることは、中世ヨーロッパにおける王権と教会の対立、そして国家形成の歴史を理解する上で欠かせません。