基本情報
- 期間:1337年~1453年
- 場所:フランス、フランドル地方、イベリア半島の一部(ナバラ王国など)
- 主な当事者:イングランド王国、フランス王国
- 重要な戦い:クレシーの戦い、ポワティエの戦い、アジャンクールの戦い、スロイスの海戦、三十人の戦い
- 主な人物:エドワード3世、黒太子エドワード、ヘンリー5世、シャルル7世、ジャンヌ・ダルク
百年戦争とは
百年戦争は、14世紀から15世紀にかけて イングランドとフランスが断続的に繰り広げた大規模な戦争 です。その名の通り、実際には1337年から1453年まで100年以上続き、両国の歴史を大きく変える結果をもたらしました。
発端となったのは1337年5月、フランス王フィリップ6世がイングランドが保持していた ギュイエンヌ公領(アキテーヌ地方の一部)を没収したこと。しかし、その背景には12世紀以来の領土問題や王位継承権をめぐる複雑な因縁がありました。
戦争の原因
英仏関係の複雑さ
そもそもの根本原因は、イングランド王がフランス国内に広大な領土(封土)を持ち、フランス王の臣下でありながら同時に一国の君主でもあったという矛盾にありました。
始まりは1066年のノルマン・コンクエスト。ウィリアム征服王はフランス王の封臣としてノルマンディー公を継承しつつ、同時にイングランド王となりました。これにより、イングランド王はフランス内に強大な権益を持つ存在となり、両国の関係は常に緊張状態に置かれます。
プランタジネット家の領土拡大
12世紀半ば、ヘンリー2世(プランタジネット朝)はさらに領土を拡大しました。
- ノルマンディー公
- アンジュー伯
- 妻アリエノール・ダキテーヌを通じてアキテーヌ公
- そして1154年にはイングランド王に即位
こうして形成されたのが「アンジュー帝国」と呼ばれる巨大領土でした。これはフランス王にとって極めて大きな脅威となりました。
領土縮小と1259年のパリ条約
その後、フランス王権の拡大によりイングランドは大陸の領土を徐々に失い、1259年の パリ条約 で最終的に次のように整理されました。
- イングランド王ヘンリー3世は ギュイエンヌ公領(ガスコーニュを含む一部の領地) の保持を認められる
- ただしノルマンディー、アンジュー、ポワトゥーなど多くの領土は放棄
- ヘンリー3世はフランス王に臣下としての忠誠(臣従礼)を行う
この条約によって一応の均衡が図られましたが、ギュイエンヌをめぐる権利関係はあいまいなまま残されました。フランス王の「宗主権」を盾にした度重なる干渉は、その後の対立の火種となっていきます。
パリ条約後の新たな危機
ギュイエンヌ没収事件(1293–1297)
1259年のパリ条約で一応の均衡が保たれていた英仏関係でしたが、1293年に再び火種が燃え上がります。 イングランドとガスコーニュの都市バイヨンヌの船団が、ノルマンディー艦隊と衝突し、小競り合いが発生しました。これに対してフランス王フィリップ4世(美男子王)は補償を要求し、1294年5月にギュイエンヌ公領を没収すると宣言します。
その後、フィリップ4世の弟ヴァロワ伯シャルルと従兄弟のアルトワ伯ロベールが軍事行動を展開し、1296年までにはギュイエンヌの大部分を制圧しました。これに対抗してイングランド王エドワード1世は、フランドル伯ギー・ド・ダンピエール(フランス王に反抗的な諸侯)と同盟を結びます。
しかし戦争は長引かず、1297年に休戦、翌年にはローマ教皇ボニファティウス8世の仲裁によって和平が確認され、ひとまず事態は収束しました。
エドワード2世とフランス王家の関係
臣従礼の問題
エドワード1世の死後、王位を継いだ エドワード2世(在位1307–1327) は、父と同じくフランス国内の領土に関して「臣従礼(フランス王に対する封臣としての忠誠儀式)」を行う義務を負っていました。
- 1308年:即位直後、フィリップ4世に対して臣従礼を実施。
- その後、フィリップ4世の息子たち(ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世)の即位ごとに改めて臣従礼が必要となりましたが、エドワード2世はこれを渋り、遅延しました。
特にシャルル4世(在位1322–1328)の時代には緊張が高まりました。
サン=サルドス事件(1323–1324)
1323年、ガスコーニュ人がアジャネ地方のサン=サルドスに新しく築かれたフランスの要塞を破壊します。これを口実にシャルル4世は 1324年7月、再びギュイエンヌを没収すると宣言しました。
ヴァロワ伯シャルルの軍勢が公領を侵攻し(1324–25)、イングランドにとっては再び領土が危機にさらされました。
妥協策とエドワード3世への継承
こうした緊張を緩和するため、両国は一時的にギュイエンヌに双方が受け入れ可能な代官(セネシャル)を任命して統治させるなど、妥協を模索しました。
1325年にはさらに一歩進めて、エドワード2世は ギュイエンヌ公の地位を息子(後のエドワード3世)に譲渡します。こうすれば「一国の王が別の王に臣従礼を行う」という屈辱的な構図を避けられるからです。
しかしこの解決策は長続きせず、翌1326年、若きエドワード3世はイングランドに戻って父を廃位(1327年)させ、自ら王位に就くことになります。
フランス王位継承をめぐる争い
カペー朝断絶と二人の候補
1328年2月1日、フランス王 シャルル4世 が男子を残さずに死去しました。ここで問題となったのが「誰がフランス王位を継ぐのか」という継承問題です。当時、明確なルールは定められていなかったため、フランス諸侯の会議が開かれ、二人の有力候補が浮上しました。
イングランド王エドワード3世
- 母イザベラがシャルル4世の妹であったため、外孫として王位を請求。
ヴァロワ伯フィリップ(後のフィリップ6世)
- フィリップ4世の弟シャルルの子であり、カペー家の男系継承者。
最終的に諸侯はフィリップ伯を支持し、彼が フィリップ6世 として即位しました。
エドワード3世の屈辱と妥協
当然エドワード3世は強く抗議しましたが、同年8月の カッセルの戦い でフィリップ6世がフランドル反乱軍を撃破すると、エドワードの立場は弱まりました。結局、エドワード3世は1329年、アミアンでギュイエンヌ公としてフィリップに対して「臣従礼」を行います。
しかし、フィリップ6世は「単純な臣従礼(simple homage)」ではなく「忠実な臣従礼(liege homage)」を要求しました。これはより強い忠誠義務を伴うもので、イングランド王にとっては屈辱的でした。結局エドワード3世は1331年、密かに再度の臣従礼を強いられることになります。
戦争への道
関係悪化
一時的に両国の関係は安定しましたが、1334年以降、再び緊張が高まります。
- エドワード3世は、フィリップ6世と対立したアルトワ伯ロベール3世を庇護し、低地諸国やドイツで反仏的な陰謀を画策。
- フィリップ6世はスコットランドへの支援(1336年)やカスティーリャとの同盟(同年12月)でイングランドを牽制。
こうして両国は全面戦争の準備を進めていきました。
戦争勃発
1337年5月24日、フィリップ6世は再び ギュイエンヌ公領の没収 を宣言。これに対抗してエドワード3世は10月、正式に「フランス王位は自分の正当な権利である」と主張し、フィリップ6世に挑戦状を送ります。
これが、後に「百年戦争」と呼ばれる長い戦いの幕開けでした。
戦争の勃発と初期の展開(1337–1360年)
海上戦から始まった百年戦争
百年戦争の戦端が開かれたのは、まず 海上での私掠船同士の戦闘 でした。イングランド王エドワード3世が本格的に大陸に上陸したのは1338年で、当初はフランドルの都市と手を結びます。
フランドル地方(現在のベルギー)では、織物産業に欠かせない イングランド産の羊毛 を確保するため、諸都市がフランス王を支持するフランドル伯に反発していました。その指導者がゲント市の ヤコブ・ファン・アルテフェルデ で、彼の仲介によりフランドル諸都市はイングランドと同盟を結びます。
さらにエドワード3世は、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世(バイエルン公)、ブラバント公、エノー伯など低地地方の諸侯とも同盟を結び、大陸での拠点を固めました。
1339年にはカンブレーを包囲しましたが、フランス王フィリップ6世との軍勢は互いににらみ合うのみで、大規模会戦には至りませんでした。
スロイスの海戦(1340年)
その一方で海上では決定的な戦闘が起こります。1340年6月24日、スロイスの海戦 において、エドワード3世の艦隊が、カスティーリャやジェノヴァの援軍を加えたフランス艦隊を撃破しました。
この勝利によりイングランドは制海権を握り、兵士や物資を安全に大陸へ輸送できるようになりました。これは百年戦争序盤における大きな転換点となりました。
同年9月にはローマ教皇ベネディクト12世やフィリップ6世の妹マルグリットの仲介により、一時的に エスプレシャン休戦 が成立します。
ブルターニュ継承戦争(1341–1343)
1341年、ブルターニュ公ジャン3世が後継者なく死去すると、その継承をめぐって争いが勃発します。
- フランス王が支持したのは ブロワ伯シャルル
- イングランド王が支援したのは モンフォール伯ジャン
両国の軍隊はブルターニュに介入し、1342年末にはヴァンヌ近郊で両軍が対峙します。最終的に新教皇クレメンス6世の使節によって仲裁が行われ、マレストロワ休戦(1343年1月) が成立しました。
プロパガンダ戦と反乱
この時期、両国は大規模決戦を避けつつ、宣伝戦を展開します。
- エドワード3世は「自分こそフランス王にふさわしい」と宣言文を教会の扉に張り出すなど、積極的に主張を広めました。
- 一方フィリップ6世は、カペー家の正統な後継者であることを強調し、伝統と正統性を利用しました。
エドワードの働きかけは部分的に効果を上げ、西フランスで反乱が起きましたが、フィリップはこれを苛烈に鎮圧します(1343–44年)。
ガスコーニュでの戦い(1345–1346)
1345年、フランドルの同盟者アルテフェルデが暗殺され、イングランドはフランドルを拠点にできなくなりました。そこでエドワード3世は戦場を ガスコーニュ地方 に移します。
- 1345年10月:ランカスター公ヘンリー(“善良伯”)が オーブロシュの戦い でフランス軍を撃破。さらにラ・レオルを占領。
- 1346年:アギヨンをフランス王太子ノルマンディー公ジャンが包囲しますが、イングランド軍はこれを退けました。
このガスコーニュでの成功は、後にエドワード3世自らが北フランスに侵攻する布石となっていきます。
クレシーの戦いとその余波(1346–1356年)
クレシーの戦い(1346年8月26日)
1346年7月、エドワード3世はコタンタン半島に上陸し、ノルマンディーを進軍してカーンを占領、その後パリに迫ります。最終的には首都を攻撃せず、セーヌ川を渡ってポントュー地方へ進みました。
そこでフランス王フィリップ6世が追撃し、両軍は クレシーの戦い で激突します。
- イングランド軍はロングボウ兵を前面に配置し、防御的な陣形を築いた。
- フランス軍は無謀な突撃を繰り返し、結果は大敗。
- フランスの大貴族が多数戦死し、騎士階級にとって屈辱的な敗北となりました。
この戦いは ロングボウの威力 を示し、「騎士の時代の終わり」を象徴する出来事とされています。
カレー包囲戦と「カレーの市民」(1346–1347年)
勝利を得たエドワード3世はその勢いで カレーを包囲 します(1346年9月~1347年8月)。
- 守備隊長ジャン・ド・ヴィエンヌのもと、市民は1年近く抵抗を続けましたが、食糧不足で降伏。
- このとき6人の市民(「カレーの市民」)が裸足・縄を首にかけ、死を覚悟してエドワードに投降。
- しかし王妃フィリッパ・オブ・エノーの嘆願により命は救われました。
このエピソードは後世に語り継がれ、ロダンの彫刻「カレーの市民」 としても有名です。
ネヴィルズ・クロスの戦い(1346年10月17日)
カレー包囲中、フランスの同盟国スコットランドが侵入します。しかしイングランド軍は ネヴィルズ・クロスの戦い でこれを撃破し、スコットランド王デイヴィッド2世を捕虜としました。
同時期にブルターニュでもイングランド軍が優勢となり、1347年のラ・ロシュ=デリアンの戦いでフランス派のブロワ伯シャルルを捕虜にしました。
黒死病と戦争の停滞(1347–1351年)
戦争が続く中、ヨーロッパ全土を 黒死病(ペスト) が襲います(1347–1351年)。人口の3分の1以上が失われたとも言われ、両国ともに戦争継続は困難となりました。
そのため1347年の休戦が繰り返し更新され、一時的に戦闘は沈静化します。
フランスの混乱とナバラ王シャルル2世(1350年代)
1350年にフィリップ6世が死去し、息子 ジャン2世(善良王) が即位します。彼はイングランドとの和平を模索しましたが、国内の世論が反発し実現できませんでした。
さらに状況を複雑にしたのが ナバラ王シャルル2世(悪党王) です。
- 彼は母方を通じてカペー家の血を引き、フランス王位継承権を主張。
- ジャン2世の娘と結婚していましたが、義父と対立し、時にイングランドと結んで混乱を引き起こしました。
- 1356年、ジャン2世はシャルル2世を逮捕しますが、ナバラ派の反乱は続きました。
ポワティエの戦い(1356年)
黒太子エドワードの遠征
1355年、休戦が崩れ、イングランド軍とフランス軍の戦闘が再開しました。イングランド王エドワード3世の長男で、「黒太子(Black Prince)」と呼ばれる エドワード王子 がボルドーに上陸し、ラングドック地方を荒らし回ります(ナベロンヌ近郊まで到達)。
翌1356年7月、黒太子は再び出陣し、ガスコーニュ軍(ジャン3世・ド・グライイ、通称「ブーシュ大尉」)と共に北上しました。兵力は7,000人程度とフランスに比べて劣勢でしたが、機動力を活かし進軍を続けました。
ジャン2世率いるフランス軍
これに対抗してフランス王 ジャン2世(善良王) 自らが軍を率いて迎撃に向かいました。彼は当時ノルマンディーでナバラ派の反乱鎮圧を行っていましたが、急ぎポワティエ方面に移動し、黒太子軍を包囲しようとしました。
両軍は1356年9月17日、ポワティエ東方で接触しました。翌18日は日曜日のため休戦となり、その間に黒太子軍はポワティエ南方の モーポチュイ(Maupertuis) の有利な地形に布陣しました。そこは林と湿地に囲まれた天然の要害で、川の合流点を利用した防御線を敷いたのです。
フランス軍の敗北
19日、フランス軍はクレシーの教訓を忘れ、正面から突撃を繰り返しました。しかし狭い地形に阻まれて騎士たちは身動きが取れず、イングランドのロングボウ兵に次々と射倒されました。
最後にはジャン2世自らが突撃を指揮しましたが、混乱の中で捕虜となり、数千人の騎士たちも共に囚われました。
結果と影響
- イングランドの大勝利:黒太子は圧倒的に不利な兵力差を覆し、再びロングボウの力を証明しました。
- フランスの大打撃:国王ジャン2世が捕虜となり、フランスの政治は混乱。ジャン2世はボルドーを経て翌1357年、イングランドへ護送されました。
- イングランドの優位確立:この戦いによりイングランドは交渉の主導権を握り、後の ブレティニー条約(1360年) への道を開くことになりました。
ジャン2世の捕虜と和平交渉
捕虜となった国王と国内の混乱
1356年の ポワティエの戦い でフランス王ジャン2世(善良王)は捕らえられ、ボルドーに留め置かれました。そこで彼はイングランドとの和平交渉を進め、アキテーヌ全域をイングランドに譲渡する代わりに休戦を得ようとします。
一方、フランス国内では国王不在の混乱の中、パリでは 商人代表エティエンヌ・マルセル を中心とする改革派が台頭し、三部会(エスタブリッシュメント)で大きな発言力を持ちました。彼らは領土割譲に強く反対し、むしろ戦争継続を望む傾向がありました。さらに、ナバラ王 シャルル(悪王) が脱獄し、フランス国内の不安定要因となります。
加えて、傭兵団(イングランドやナバラの兵士たち)が失業して暴徒化し、各地で略奪を繰り返しました。さらに1358年には北フランスで農民反乱 ジャックリーの乱 が勃発。これらは貴族により残虐に鎮圧され、社会不安は深まりました。
ロンドン条約(第一次・第二次)
ジャン2世は捕虜の立場でありながら、イングランド王エドワード3世と和平交渉を続けました。
第一次ロンドン条約(1358年1月)
- アキテーヌを完全に割譲
- 国王の身代金を400万エキュに設定
- その代わりエドワードはフランス王位の請求を放棄 → しかし、フランス国内の反対と身代金支払いの遅れにより実現せず。
第二次ロンドン条約(1359年3月)
- さらに厳しい条件(北フランスの旧アンジュー領まで譲渡)
- 支払いまで人質を差し出すことを要求 → フランスの三部会が拒否し、交渉は決裂。
ブレティニー条約(1360年)
エドワード3世は再び大軍を率いて侵攻し、ランスやシャンパーニュ地方を荒らしましたが、決定的な勝利は得られず、両国は再び交渉の場に戻りました。
ブレティニー条約(1360年5月8日) → カレー条約で正式批准
- アキテーヌ全域+カレーとギネをイングランドが完全主権として獲得
- フランスは身代金を300万エキュに減額
- ジャン2世は人質と引き換えに帰国(1360年10月釈放)
- エドワード3世はフランス王位請求を放棄
この条約により一時的に休戦となり、戦争は小康状態に入りました。
その後
ジャン2世は帰国しましたが、疲弊したフランスでは依然として傭兵団の略奪が続き、国内再建は困難でした。1362年にはエドワード3世が息子 黒太子エドワード にアキテーヌ公領を与え、イングランドの支配を固めました。
黒太子エドワードと戦争の再燃
1360年のブレティニー条約で休戦が成立しましたが、戦争は完全には終わりませんでした。イングランド王エドワード3世の長男 黒太子エドワード は、アキテーヌ公として南フランスを支配しました。しかし、重税政策によりガスコーニュの貴族たちの反発を招きます。
一方、フランス側ではジャン2世の後を継いだ シャルル5世(賢王) が登場。彼は軍事的才能は乏しかったものの、優れた戦略家でした。傭兵団を再組織し、名将 デュ・ゲクラン を指揮官に任じて戦況を立て直しました。正面からの大規模戦闘を避け、消耗戦やゲリラ戦を駆使し、イングランドの拠点を次々と奪還。1380年までにフランスは大部分の領土を回復しました。
王位継承問題とアジンコートの悲劇
シャルル5世の死後、王位を継いだ シャルル6世(狂気王) の時代、内乱が深刻化します。ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立が激化し、フランスは分裂状態に陥りました。
この混乱を突いたのがイングランド王 ヘンリー5世 です。1415年、彼はノルマンディーへ侵攻し、アジンコートの戦い で数に劣りながらも長弓隊の力で圧倒的勝利を収めました。多くのフランス貴族が戦死し、フランスの危機は一層深まりました。
1420年の トロワ条約 では、ヘンリー5世とフランス王女カトリーヌの結婚が取り決められ、シャルル6世の死後はフランス王位をイングランド王が継承するという屈辱的条件が定められました。この結果、シャルル6世の息子である王太子シャルル(後のシャルル7世)は王位継承から外され、南フランスに追いやられました。
ジャンヌ・ダルクの登場
フランスが存亡の危機に瀕したとき、歴史を変える人物 ジャンヌ・ダルク が現れます。彼女は神の声に導かれたと信じ、1429年にオルレアンの包囲を解放。これによりフランス軍の士気は大いに高まりました。
ジャンヌの活躍により王太子シャルルはランスで正式に戴冠し、シャルル7世 として即位。これによりフランス王家の正統性は回復しました。しかし、ジャンヌ自身は1430年にブルゴーニュ軍に捕らえられ、翌1431年にルーアンで異端裁判にかけられ火刑に処されました。
戦争の終結
ジャンヌの死後も戦争は続きましたが、フランスは次第に盛り返していきます。シャルル7世の下で軍制改革が進められ、常備軍の整備や砲兵の発展により、イングランド軍に対抗できる力を得ました。
1450年、フォルミニーの戦い でイングランド軍を破り、続いて1453年の カスティヨンの戦い で決定的勝利を収めました。この戦いは大砲を大規模に使用した最初の戦いのひとつとされ、近世戦争の幕開けを象徴します。
同年、百年戦争は事実上終結。イングランドが保持したのはカレーのみとなり、フランスの領土はほぼ回復されました。
百年戦争の影響と意義
百年以上に及んだこの戦争は、ヨーロッパ史に大きな影響を残しました。
フランスの影響
- 国土の荒廃と人口減少
- しかし最終的には王権が強化され、近代的な国家体制への基盤が築かれた
イングランドの影響
- 大陸領土の喪失
- 国内では不満が高まり、後に 薔薇戦争 へとつながっていった
軍事的影響
- 騎士による重装騎兵の時代が終わり、弓兵・歩兵・火砲が戦場の主役に
- 常備軍の整備が進み、中世的封建軍制の衰退を加速させた
まとめ
百年戦争(1337–1453)は、単なるイングランドとフランスの王位継承争いを超え、中世から近世への転換点 となった大戦争でした。そこには王朝の野心、民族意識の萌芽、軍事技術の革新、そしてジャンヌ・ダルクのような象徴的人物が絡み合い、ヨーロッパの歴史に深い爪痕を残しました。