基本情報
- ハンガリー語名:Liszt Ferenc(リスト・フェレンツ)
- 生年月日:1811年10月22日
- 出生地:ハンガリー王国 ドボルヤーン(当時はオーストリア帝国領、現在のオーストリア・ライディング)
- 没年月日:1886年7月31日(ドイツ・バイロイトにて、74歳没)
- 代表作:「超絶技巧練習曲」「巡礼の年」「ファウスト交響曲」「ハンガリー狂詩曲 第2番」「ピアノ・ソナタ ロ短調」「前奏曲(Les Préludes)」など
- 音楽様式:ロマン派
- 家族:娘 コジマ・ワーグナー(作曲家ワーグナーの妻)
フランツ・リストは、19世紀ヨーロッパで最も華やかに活躍したピアニストであり、同時に作曲家としても革新的な足跡を残した人物です。彼の演奏は「ピアノの魔術師」と称されるほど圧倒的で、同時代の聴衆を熱狂させました。また、交響詩という新しいジャンルを確立し、ロマン派音楽の発展に大きな役割を果たしました。
幼少期と音楽教育
リストの父アーダム・リストは、エステルハージ侯爵家に仕える音楽愛好家で、宮廷楽団でチェロを演奏していました。幼いフランツは父の影響を受け、5歳頃からピアノに親しみます。教会音楽やロマ音楽に早くから関心を示し、宗教的な感受性を育んでいきました。
8歳で作曲を始め、9歳の時にはショプロンやプレスブルク(現在のスロバキア・ブラチスラバ)で公開演奏を行い、地元の貴族たちを驚かせました。その才能を認められた彼は、音楽教育のための資金援助を受け、父と共にウィーンへ移ります。ここで、かのルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの弟子であったカール・ツェルニーにピアノを師事し、アントニオ・サリエリから作曲を学びました。
ウィーンでの演奏は大成功を収め、若きリストの名はヨーロッパに広まり始めます。伝説によればベートーヴェンに祝福の接吻を受けたとも伝えられていますが、これは後世の逸話である可能性が高いとされています。
パリ時代の始まり
1823年、リストは家族とともにパリへ移住します。しかし国籍の関係でパリ音楽院への入学を拒否され、代わりに理論家アントン・ライハや作曲家フェルディナンド・ペールに学びました。1824年のパリでのデビュー演奏はセンセーションを巻き起こし、瞬く間に人気ピアニストとして知られるようになります。翌年にはロンドンにも招かれ、国王ジョージ4世の前でも演奏しました。
この頃に作曲した歌劇《ドン・サンシュ》(1825年)は、パリ・オペラ座で上演され、序曲《新しい大序曲》として後に知られるようになります。
父の死と精神的危機
1827年、ツアー先のブーローニュで父アーダムがチフスにより急逝。若きリストは深い衝撃を受け、母を呼び寄せてパリで暮らし始めます。この頃、リストはピアノ教師として生計を立てながらも、精神的に不安定な時期を迎えました。恋愛の挫折や健康の悪化から、一時は聖職者になることを望むほどでした。
しかしやがて、作家ラマルティーヌやユーゴー、ハイネといった文豪たちと交流を深め、思想的にも芸術的にも大きく成長していきます。1830年のフランス7月革命の影響も受け、《革命交響曲》を構想するなど、社会と芸術を結びつける姿勢が芽生えました。
芸術的転機 ― ベルリオーズ、パガニーニ、ショパンとの出会い
1830年代初頭、リストは3人の巨匠との出会いにより大きな影響を受けます。
- エクトル・ベルリオーズ:代表作《幻想交響曲》に触発され、管弦楽的な響きと劇的表現を学びました。リストはこの曲をピアノに編曲し、ベルリオーズの音楽を広める役割も果たします。
- ニコロ・パガニーニ:1831年に初めて演奏を聴き、ヴァイオリンの超絶技巧をピアノに移し替えることを決意。後に《ラ・カンパネラ》を生み出しました。
- フレデリック・ショパン:繊細で詩的なピアノ様式に大きな影響を受け、リスト自身の音楽にも抒情性が加わっていきます。
マリー・ダグー伯爵夫人との日々
1834年、リストは《詩的で宗教的な調べ》や《アパリション》を発表し、作曲家として成熟期を迎えます。この頃、作家ジョルジュ・サンドを通じてマリー・ダグー伯爵夫人(本名マリー・ド・フラヴィニー)と出会い、恋愛関係に発展しました。1835年には夫人が家庭を離れてリストと共にスイスへ移り住み、娘ブランディーヌが誕生します。
二人の生活はスイスやイタリアを拠点に続き、リストは《巡礼の年(第1集・第2集)》を作曲。風景や芸術、文学に触発されたこれらの作品は、リストの芸術観を象徴する名曲群となりました。
さらにこの時期、《超絶技巧練習曲》やパガニーニによる主題をもとにした練習曲、ベートーヴェン交響曲のピアノ編曲などを発表し、彼の「ピアノ音楽を通じて他の作曲家の芸術を普及させる」という使命感も明らかになっていきます。
ヴァイマル時代の創作(1848–1861)
1847年、リストはキエフでカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と出会い、その影響で華々しい演奏活動を退き、作曲へ専念する決意を固めます。翌年、彼はドイツ・ヴァイマルに定住し、宮廷楽団の指揮者として活動を開始しました。
この時期、リストは創作活動の最盛期を迎え、以下の傑作を次々に世に送り出します。
- 《交響詩》全12曲(世界初のジャンル)
- 《ファウスト交響曲》(1854年)
- 《ダンテ交響曲》(1855–56年)
- 《ピアノ・ソナタ ロ短調》(1852–53年)
- 《ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調》《第2番 イ長調》
- 《死の舞踏(Totentanz)》
さらに、《超絶技巧練習曲》の改訂版、《巡礼の年(第1集・第2集)》、宗教曲や合唱曲なども次々に完成させました。
ヴァイマルは当時の前衛的作曲家たちの拠点となり、「新ドイツ楽派」と呼ばれる潮流を形成。リストのもとには多くの若手音楽家が集まりました。しかし、伝統的な音楽家や保守的な宮廷社会からは批判も強く、ワーグナーを庇護したこと、侯爵夫人と同棲したことなども反感を買いました。1859年には息子ダニエルを失う悲劇も重なり、リストは次第に心身ともに消耗。1861年、ついにヴァイマルを去り、ローマへ向かいます。
ローマでの宗教音楽と晩年(1861–1869)
ローマ時代のリストは宗教音楽に傾倒し、《聖エリザベート伝説》(1857–62年)や大作オラトリオ《キリスト》(1855–66年)を完成させました。彼は感傷的な宗教音楽ではなく、グレゴリオ聖歌に基づいたより直接的で荘厳な宗教音楽を目指しましたが、当時の教会当局には受け入れられず、多くの作品は死後まで出版されませんでした。
1865年、リストはカトリック教会の小品位を受け、黒衣の聖職者として生きることを選びますが、司祭にはなりませんでした。1867年にはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のハンガリー国王即位に際し、《ハンガリー戴冠ミサ》を作曲。これにより故郷との絆を新たにしました。
私生活では、娘コジマがワーグナーと恋愛関係になり、夫ハンス・フォン・ビューローを裏切ったことで深刻な確執が生まれます。この断絶は1872年まで続きました。
晩年と死
リストはその後、ローマ、ヴァイマル、ブダペストを拠点に「三都生活」を送りながら、作曲と教育に力を注ぎました。多くの弟子たちが彼の技術と精神を受け継ぎ、ヨーロッパ全土へ広めていきました。
しかし、家族の死と健康の悪化は彼を深く蝕みました。1862年には娘ブランディーネが26歳で夭逝し、リストはJ.S.バッハ《われ泣き、嘆き》の主題に基づく変奏曲を書いて追悼しました。最晩年の1886年、バイロイト音楽祭を訪れたリストは肺炎を患い、7月31日にこの地で生涯を閉じました。
リストの遺産
フランツ・リストは、単なる「ピアノの魔術師」ではなく、ロマン派音楽の革新者として近代音楽史に多大な影響を与えました。
- ピアノ音楽の革命:超絶技巧と管弦楽的表現でピアノの可能性を拡張
- 交響詩の創始:文学や自然を音楽で描く新形式を確立
- 和声の先駆性:後期作品では半音階的な和声を多用し、20世紀音楽への道を開いた
- 教育者としての功績:グリーグ、バラキレフ、ボロディン、ドビュッシーら若き作曲家を支援
- 文化人としての影響:ショパン論やハンガリー音楽論など、膨大な著作と書簡を残す
リストは時に「華美なだけの作曲家」と批判されましたが、今日ではその真の革新性が再評価されています。彼の愛人であり理解者でもあったザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人の言葉通り、**「リストは未来へ槍を投げた」**芸術家だったのです。