岩のドーム(Dome of the Rock)― イスラーム最古の聖なる建造物

イスラエル·
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エルサレム旧市街にそびえる「岩のドーム(Dome of the Rock)」は、7世紀末、ウマイヤ朝のカリフ アブド・アル=マリク・イブン・マルワーン によって建立されたイスラーム最古の現存建築物です。黄金のドームを戴いたこの壮麗な聖堂は、世界で最もよく知られるイスラーム建築の象徴のひとつとなっています。

岩のドームは、イスラームでは 「ハラム・アル=シャリーフ(高貴なる聖域)」、ユダヤ教ではかつてエルサレム神殿が建てられていた 「神殿の丘(テンプル・マウント)」 と呼ばれる高台に位置しています。ムスリムの伝承によれば、堂内にある大きな岩は、預言者ムハンマドが夜の旅(イスラ―)と昇天(ミラージュ)の際に天へと上った場所とされています。

この広大な聖域の南端には アル=アクサー・モスク があり、預言者が奇跡的にメッカからここへ運ばれたと信じられています。今日「アル=アクサー・モスク」という名称は、このモスクだけでなく広場全体、さらには岩のドームを含む一帯を指す言葉としても使われています。

建築の特徴

岩のドームの構造と装飾は、ビザンツ建築の伝統に根ざしながらも、7世紀における独自のイスラーム美術様式の萌芽を示しています。建物は広い高台の中央付近に位置し、八角形の基壇の上に金色に輝く木造の中央ドームが載せられています。このドームは直径約20メートル、高さ65フィート(約20メートル)で、高いドラムに据えられ、その周囲を16本の柱とピア(壁柱)が取り囲んでいます。さらにその外側には24本の柱とピアによる八角形の回廊が設けられています。

ドームの直下には聖なる岩の一部が露出しており、欄干で囲われて保護されています。岩の下には自然の洞窟があり、階段で降りることが可能です。外壁も八角形をしており、それぞれの辺は幅約18メートル、高さ約11メートルに及びます。ドームと外壁には多数の窓が設けられ、内部に光を取り込む構造になっています。

内部・外部ともに大理石、モザイク、金属板で華やかに装飾されています。モザイクの技法はビザンツの公共建築や教会に見られるものと共通していますが、岩のドームのモザイクには人間や動物の姿は一切なく、代わりにアラビア文字や植物文様、宝石や王冠などのモチーフが組み合わされています。八角形の回廊には、アラビア語の宗教的銘文が帯状にめぐらされています。

歴史的背景と建設

岩のドーム

岩のドームが建設されたのは、イスラーム成立以前から深い宗教的意義を持っていたエルサレムにおける比較的遅い時期の出来事でした。紀元前1000年頃、ダビデ王がエルサレムを攻略して首都とし、その子ソロモン王が神殿を建立しました。ソロモン神殿は古代イスラエル人の信仰の中心でしたが、その後ヘロデ王による再建を経て、最終的には70年にローマ軍によって破壊されました。135年にはローマ都市「アエリア・カピトリナ」として再編され、町の姿は一変しました。

4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス1世がキリスト教に改宗すると、エルサレムは再び宗教都市としての繁栄を迎えます。キリスト教徒がイエスの死・埋葬・復活の地と信じた場所には聖墳墓教会が建設され、以後の数世紀にわたり壮麗な教会や修道院、施療院が街を彩りました。

638年、第2代カリフのウマル1世によってエルサレムがイスラームの支配下に入ったとき、この都市はすでにキリスト教の聖地として成熟していました。その後、イスラーム帝国は内戦や不安定な時期を迎えますが、第5代ウマイヤ朝カリフ、アブド・アル=マリク(在位685–705年)が権力を集中させ、帝国の統一を図る一環として岩のドームの建設を推し進めました。聖堂内の銘文によると、その完成はイスラーム暦72年(691–692年)と記録されています。

岩のドームは建設以来、その基本構造をほぼ保ちつつ、時代ごとに装飾の修復や改変が行われてきました。アッバース朝、ファーティマ朝、アイユーブ朝など、エルサレムを支配した諸イスラーム王朝はいずれも修繕や銘文の追加を施しました。十字軍の支配下では、キリスト教巡礼者が岩から遺物を持ち帰らないように鉄製の柵で囲まれましたが、のちにアイユーブ朝が木製の囲いに置き換え、現在もそれが残っています。

16世紀にはオスマン帝国のスレイマン1世(大帝)が大規模修復を命じ、外壁のモザイクを鮮やかな彩色タイルに張り替えました。20世紀にはハーシム家の王族の主導で内外装の修復が行われ、ドームには新たに金の覆いが施され、今日私たちが目にする輝かしい姿となっています。

目的と意義

今日、岩のドームは預言者ムハンマドの昇天(ミラージュ)と結びつけられることで知られていますが、実際のところ、内部の銘文にはこの出来事に直接言及する箇所はありません。9世紀の文献には聖域(ハラム・アル=シャリーフ)とミラージュの関連が記録されているものの、この伝承が岩のドームと結びついて広く語られるようになったのは11世紀以降でした。

本来の機能や建設の目的については、同時代の記録が乏しいためはっきりしません。建築様式はモスクとは異なり、回廊式の配置も集団礼拝には適していません。他のイスラーム建築のカテゴリーにも容易に当てはまらないため、その意義は長らく議論されてきました。

一説によれば、この建物はイスラームをアブラハムの宗教の正統な後継者として位置づける意図があったとされます。その構造は、聖人の墓や宗教的出来事を記念するために建てられたビザンツ建築の「マルティリウム(円形・多角形の聖堂)」に類似しており、とりわけ近隣にあった八角形の聖堂「カティスマ聖堂」の影響が考えられています。また、その壮麗な規模と装飾は、キリスト教の聖墳墓教会に匹敵する存在感を示すことを意図したともいわれます。銘文に刻まれたクルアーンの章句は神の唯一性(タウヒード)を強調し、三位一体やイエスの神性といったキリスト教の教義を退けています。

アッバース朝が成立した8世紀以降、一部の記録では、アブド・アル=マリクがメッカのカアバに代わる巡礼地として岩のドームを築いたと伝えられました。これは反ウマイヤ朝的な史観に基づくとされ、実際にはイヴン・アル=ズバイールの反乱期にも巡礼はメッカで行われていたことが確認されています。

また、学者の中には、岩のドームが「終末論的な象徴」として建設された可能性を指摘する人々もいます。その位置、建築、装飾のモチーフが、イスラームやビザンツにおける最後の審判や天国のイメージと結びつけられるからです。

さらにこの地は、イスラーム以外の宗教にとっても深い意味を持っています。ユダヤ教では、この場所はかつてソロモン神殿が建っていた「神殿の丘」であり、天地創造の基盤石(Foundation Stone)が存在すると信じられています。中世には、ユダヤ教徒やキリスト教徒が岩のドームを「ソロモン神殿」とみなし、その意匠は美術や儀礼用具に取り入れられました。十字軍が1099年にエルサレムを占領すると、神殿の丘は聖殿騎士団の拠点となり、彼らの教会建築は岩のドームを模したデザインで建設されました。岩のドーム自体も十字軍時代には教会として使用されましたが、1187年、サラーフッディーン(サラディン)率いるアイユーブ朝がエルサレムを奪還し、再びイスラームの聖地となりました。

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