サムネイル画像

サンドロ・ボッティチェッリの超有名作品11作とそれが見れる場所解説

イタリア·

サンドロ・ボッティチェリ(1445–1510)は、もともと金細工師の見習いとしてキャリアを始めましたが、やがて金属ではなく絵筆を手に取り、ルネサンスを代表する「美と動きの詩人」と呼ばれる画家となりました。彼の作品は、神話の女神が貝殻に乗って海から現れる幻想的な場面から、荘厳なシスティーナ礼拝堂のフレスコ画に至るまで、多彩でありながら一貫して観る者を魅了してやみません。特に《春》や《ヴィーナスの誕生》といった神話画は、ルネサンス芸術の象徴として世界的に知られています。

また、彼はメディチ家の庇護を受け、政治や宗教、思想とも深く関わりながら独自の表現を発展させました。500年以上が経った今もなお、彼の作品は世界各地の美術館で人々の足を止め、鮮烈な印象を残し続けています。本記事では、そんなボッティチェリの傑作11選をたどりながら、時代を超えて愛される魅力に迫っていきます。

聖セバスティアヌス (St Sebastian)

1474年 | 板上テンペラ | ベルリン美術館(Gemäldegalerie)

クリエイティブコモンズライセンス

この聖人の姿は非常にか細く不安定な印象を与えます。ボッティチェリは背が高く、細身で、やせぎすの苦しみに満ちた人物像を描きました。エミール・ジェブハルトとヴィクトリア・チャールズによれば、ボッティチェリはここでドナテッロの比例規範を参照しています。つまり、師から学んだ「豊かで丸みを帯びた人体」とは対照的に、やや誇張された細身の体型を描くことで、人間像に荘厳さを与えているのです。

この作品を理解するためには、歴史的背景を踏まえることが重要です。バーバラ・ダイムリングによると、当時セバスティアヌスはペストに感染した人々の守護聖人として、イタリアで最も崇拝されていた聖人の一人でした。

ダイムリングは、この絵画はおそらく「ペストから救われたことへの感謝の表現」であったと示唆しています。非常に一般的ではない題材であるため、このコレクションの中でも特に印象に残る作品となるでしょう。

受胎告知 (Annunciation)

1490年 | 板上テンペラ | ケルヴィングローヴ美術館(グラスゴー)

クリエイティブコモンズライセンス

このボッティチェリの作品は、聖母マリアが読書をしている場面に天使が現れ、神の子を身ごもることを告げるという「受胎告知」の一場面を描いています。

この作品においてボッティチェリは、レオナルド・ダ・ヴィンチの師であるヴェロッキオから着想を得たと考えられています。しかし、マリアと天使の構図自体は、彼の師であるフラ・フィリッポ・リッピから学んだものでしょう。リッピもまた、同じ様式で受胎告知を描いています。

この絵の最も際立った要素は、建築的なモチーフを用いて物語を枠取っている点です。柱の配置、アーチ、床の描写によって興味深い遠近感が生み出され、まるで実在する建築物の中での出来事のような印象を与えています。

受胎告知は中世以来、キリスト教美術において最も一般的なテーマのひとつであり、ほぼすべての巨匠がこの題材を手がけています。そのため、この作品はボッティチェリの芸術的キャリアにおける重要な一歩として理解されています。

ボッティチェリは他にも複数の「受胎告知」を描いています。そのひとつは「チェステッロの受胎告知」として知られる作品で、より簡素な構図が特徴であり、現在はフィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されています。また、ニューヨークのメトロポリタン美術館にも別のバージョンが残されています。

鑑賞できる場所:ケルヴィングローヴ美術館(グラスゴー)

誹謗 (Callumny of Apelles)

1494–1495年 | Tempera on canvas | ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

クリエイティブコモンズライセンス

この作品は、ボッティチェリの最も有名な絵画のひとつです。その理由は、彼が最も見事に「エクフラシス(ekphrasis)」というジャンルを描き出しているからです。エクフラシス的絵画とは、本来は他の芸術媒体を言葉で描写する修辞技法ですが、ここでは絵画が別の芸術作品を再現し、その本質や形を表そうとしています。

この絵は「翻案」と「相乗効果」の融合といえるでしょう。ボッティチェリは、古代ギリシアの画家アペレスが描いたものの現存しない作品を、プリニウス(大プリニウス)やルキアノスの注釈に残された記述だけを手がかりに再現しようとしました。

画中の人物たちは悪徳と美徳を象徴しており、数多くの意味や寓意が込められています。その複雑さゆえに、今日でも美術史家にとって解釈が難しい作品のひとつとされています。さらに、誰のために描かれたのかが不明であり、しかもアペレスの原作自体も失われているため、直接的な比較ができない点も大きな要因です。

鑑賞のヒント:フィレンツェ旅行を計画していますか?ウフィツィ美術館には小規模グループツアーもあります。大人数で訪れるよりも、少人数でガイドと一緒に見ることで、この複雑な作品の理解を深めることができるでしょう。

鑑賞できる場所:ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

スメラルダ・バンディネッリの肖像 (Portrait of Smeralda Bandinelli)

1470年頃 | 板上テンペラ | ヴィクトリア&アルバート美術館(ロンドン)

クリエイティブコモンズライセンス

ボッティチェリはルネサンス初期において、肖像画のスタイルを変革した最初の画家の一人でした。従来の横顔(プロファイル)ではなく、四分の三正面の肖像へと移行する流れをつくったのです。この潮流はフランドル派の画家たちによって始まりました。

1470年代、ボッティチェリは人物の表情表現を革新するさまざまな試みに取り組みましたが、この肖像画ではさらに新しい要素を加えています。

パトリシア・サンブラーノによれば、この作品はまるで建築的な枠や開口部を通して人物を見ているかのように構成されています。ボッティチェリはこの手法を得意とし、頻繁に用いましたが、それを肖像画の中に新たに導入したのです。

さらにサンブラーノは、この作品がこの種の女性肖像画としては現存する最初の例であると指摘しています。また、コスタラスとリチャードソンによると、この絵画は19世紀にロセッティによって修復され、部分的に改変された可能性があるといいます。彼らはまた、ボッティチェリがテンペラ画に油絵具を加えることで、より洗練された表現効果を生み出そうとしたことを指摘しており、その特徴が本作にも見て取れるのです。

鑑賞できる場所:ヴィクトリア&アルバート美術館(ロンドン)

マニフィカトの聖母 (Madonna of the Magnificat)

1481年 | 板上テンペラ(円形画)| ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

クリエイティブコモンズライセンス

この作品は、聖母マリアと幼子イエスを描いたもので、聖母はザクロを手にしています。カルロ・モントレゾールによれば、ザクロは復活の象徴とされています。この絵からは、マリアとイエスの身体表現、さらに背景の風景、とりわけ川の描写において、ボッティチェリが動きの表現に精通していたことがうかがえます。

絵画のタイトルは、幼子イエスが母の腕の上に持っている書物のページに由来します。そこには「マニフィカト(Magnificat)」の言葉が記されているのです。シバノフによれば、この聖母は多くの「子と書物を持つ聖母像」とは異なり、受動的な読者として描かれているのではありません。

よく見ると、彼女はペンを手にしており、このマニフィカトのテキストを書き記しているのです。こうした神秘的で独特な表現は、ボッティチェリらしい工夫であり、美術史家たちの間で多くの議論を呼んできました。

鑑賞できる場所:ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

ルクレツィアの悲劇 (The Tragedy of Lucretia)

1496–1504年 | 板上テンペラ・油彩 | イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館(ボストン)

クリエイティブコモンズライセンス

この作品は、ローマ最後の王の息子であるセクストゥス・タルクィニウスによるルクレツィアへの凌辱を劇的に描いたものです。左側のパネルにはその暴行の場面が描かれています。

中央のパネルには、ルクレツィアの埋葬と、ローマの男たちが武器を手にしてこの罪に立ち上がる様子が表されています。やがてこれがローマ共和政の成立へとつながるのです。

右側のパネルでは、ルクレツィアが自身に起きたことを明かしたのち、自ら命を絶つ場面が描かれています。ボッティチェリは建物を舞台装置のように用い、三つの場面を連続させることで、まるで三連祭壇画のような構成を作り出しています。これは遠近法と物語性を同時に表現する巧みな手法でした。

その建築が「古代ローマ」を示しているのか、あるいはボッティチェリ同時代の風景を示しているのかは不明です。バーバラ・ダイムリングによれば、ボッティチェリはこの物語を通して同時代の歴史的事件、特に彼のパトロンであったメディチ家の追放とフィレンツェ共和国の成立を暗示しているとされます。したがって、この作品は神話や宗教画を多く手がけたボッティチェリにとって、きわめて政治的な意味をもつ作品だったのです。

鑑賞できる場所:イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館(ボストン)

モーセの青春 (Youth of Moses)

1481–1482年 | フレスコ画 | システィーナ礼拝堂(バチカン)

クリエイティブコモンズライセンス

別名「モーセの試練」とも呼ばれるこの作品は、『出エジプト記』の場面を描いたフレスコ画シリーズの一部で、ルネサンス期の教皇たちがシスティーナ礼拝堂を飾るために発注したものです。ボッティチェリはこの大規模プロジェクトに参加した多くの画家の一人でした。

このとき、彼がフィレンツェ以外で仕事をしたのは非常に珍しい例といえます。規模があまりに大きかったため、ボッティチェリは弟子たちを使って場面の制作を進めました。これは後にミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を描く際に行った方法とも似ています。

さらに彼とその工房は、モーセとイエスの物語を描いた計3つのフレスコ画を制作しました。これらの絵では、モーセは黄色のチュニックと緑のマントを身につけているため、一目で見分けることができます。これらの作品の重要性は、物語そのものよりも、この壮大な規模と礼拝堂という場の特別な意味にあるといえるでしょう。

鑑賞のヒント:システィーナ礼拝堂は想像以上に見どころが多い場所です。混雑前に入場できる早朝ツアーを利用すれば、ガイドの解説とともにゆったりとこの壮大な作品群を鑑賞することができます。

鑑賞できる場所:システィーナ礼拝堂(バチカン)

東方三博士の礼拝 (Adoration of the Magi)

1476年 | 板上テンペラ | ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

クリエイティブコモンズライセンス

カルロ・モントレゾールによれば、この作品は画家としてのボッティチェリのキャリアにおいて極めて重要な一歩であり、彼が芸術家として自らの道と声を見出すきっかけとなったものです。しかし、この絵が最も有名なのは、当時の著名な人物が描き込まれているからです。

イザベラ・オルストンによると、三博士はそれぞれコジモ・デ・メディチとその息子たちピエロ、ジョヴァンニの姿で描かれています。彼らは制作当時すでに亡くなっていましたが、ボッティチェリにとってこれがメディチ家との最初の関わりとなり、将来にわたる有望な後援関係のきっかけとなったのです。

さらに、バーバラ・ダイムリングは、三博士の従者たちがきわめて豪華な衣装をまとって描かれていることを指摘しています。これは、フィレンツェの「東方三博士の同信会(兄弟団)」による壮麗な行列を反映しており、聖書に描かれる三博士の行進を模したものでした。この絵は、当時のフィレンツェにおける文化的な祝祭を理解するうえでも重要な資料となっています。

鑑賞できる場所:ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

神秘の降誕 (The Mystical Nativity)

1500–1501年頃 | キャンバスに油彩 | ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

クリエイティブコモンズライセンス

この作品は、ボッティチェリが自ら署名を残した唯一の絵画です。降誕を描いたものですが、非常に特異な図像表現が見られます。通常の降誕図では三博士が幼子イエスに贈り物を捧げる場面が描かれますが、この絵には贈り物がありません。さらに、幼子キリストの表情もどこか不安げです。

美術史家ジョナサン・ネルソンによれば、天使と悪魔の描写には「最後の審判」や「黙示録」を想起させる要素が含まれています。ボッティチェリはここで、キリストが再臨して人々の魂を裁くことを暗示しているのかもしれません。

この思想は、ボッティチェリが急進的な修道士ジローラモ・サヴォナローラと関わっていた時期と一致します。サヴォナローラはイタリアの支配者や富裕層の腐敗、世俗的な芸術や虚飾を厳しく非難し、キリスト教の刷新を強く訴えました。その言葉には終末的な響きがあり、実際に1494年から1498年の第一次イタリア戦争が起こり、最終的にメディチ家がフィレンツェから追放されることにつながりました。

皮肉なことに、サヴォナローラ自身はやがて教皇によって破門され、処刑されてしまいます。しかしその過激な説教は、ボッティチェリの心に深く響き、本作にもその思想が色濃く反映されているのです。

鑑賞できる場所:ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

春 (Primavera)

1479–1480年頃 | 板上テンペラ | ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

クリエイティブコモンズライセンス

これは初期ルネサンスに制作された神話画の中で最大の規模を誇る作品です。イザベラ・オルストンによれば、この絵は結婚を記念するために構想された可能性があるといいます。実際、愛と結婚というテーマはこの作品全体に響き渡っています。

しかし、ジャン・ギリーズが指摘するように、この作品は美術史上もっとも議論を呼んできた絵画のひとつであり、学者たちの間では謎めいた存在と見なされてきました。

それでも、美術史家たちは、この作品がボッティチェリのようなルネサンスの芸術家に対して「人文主義」が与えた深い影響を表している点では一致しています。また、この絵がメディチ家によって依頼されたとする伝統的な解釈を受け入れるならば、そこにはパトロンであるメディチ家とその思想の痕跡も見いだせます。

メディチ家は、キリスト教思想とプラトン哲学を融合させた「新プラトン主義」の信奉者でした。これは、作品に漂う神秘的な図像表現を理解するうえで重要な要素かもしれません。

さらに、ジャン・ギリーズによれば、近年発見された目録にはこの絵がロレンツォ・デ・メディチのために描かれた、あるいは少なくとも彼が長く所蔵していたことを示す記録がありました。つまり、この作品はロレンツォ本人にとって特別な意味を持っていた可能性が高いのです。

カルロ・モントレゾールによれば、当時の目録ではこの作品を「アトランティスの園」や「ヘスペリデスの園」と呼んでいました。というのも、ボッティチェリ自身は作品に名前をつけておらず、「プリマヴェーラ」という呼び名はヴァザーリが記した記録に基づいて後世につけられたものだからです。

鑑賞できる場所:ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

ヴィーナスの誕生 (The Birth of Venus)

1484–1486年 | 板上テンペラ | ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

クリエイティブコモンズライセンス

この作品は、サンドロ・ボッティチェリの絵画の中で最も象徴的な存在であり、近年の人気によってその名声を不動のものにしています。イザベラ・オルストンによれば、これはトスカーナで制作された「カンヴァスにテンペラ画」としては史上初の作品でもあります。

もうひとつの驚くべき特徴は、ボッティチェリが絵具に雪花石膏(アラバスター)の粉を混ぜていたことです。これにより色彩が際立ち、同時に保存性も高められました。

また、オルストンによれば、このヴィーナスの身体表現と官能性は、大理石像の女神を模したものです。そのため肌を極端に白く、大理石のように描くことに重点が置かれました。彼女が恥じらうように身を覆うポーズは、古典美術における「ヴィーナス・プディカ」の直接的な引用です。

多くの美術史家は、この作品がオウィディウス『変身物語』に着想を得た寓意的な絵画だと考えています。さらにオルストンは、この作品のモデルがボッティチェリの恋人とされるシモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチだった可能性を指摘しています。

しかし彼女は21歳という若さで結核とみられる病により早逝しました。ボッティチェリが生涯独身を貫き、自身の墓を彼女の墓前に置くよう望んだことは、彼がこの女性に抱いた深い崇拝を物語っており、彼女こそがこのヴィーナスの霊感の源だったと考えられます。

鑑賞できる場所:ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

よくある質問

Q. サンドロ・ボッティチェリとは誰ですか?
A. 1445年にフィレンツェで生まれた画家で、フラ・フィリッポ・リッピのもとで修業を積みました。1470年頃には自らの工房を持ち、《春》や《ヴィーナスの誕生》をはじめとする神話画や宗教画によって初期ルネサンスを代表する巨匠のひとりとなりました。
Q. ボッティチェリの作品は現在どこで見られますか?
A. 最大のコレクションはフィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されていますが、ロンドンのナショナル・ギャラリー、ベルリンの絵画館(ゲメルデギャラリー)、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館、そしてバチカンのシスティーナ礼拝堂など世界各地の美術館でも鑑賞できます。
Q. ボッティチェリの最も有名な作品は何ですか?
A. 《ヴィーナスの誕生》(1484–1486年、ウフィツィ美術館所蔵)が彼の代表作として広く知られています。カンヴァスにテンペラで描かれたこの傑作は、ルネサンス美術を象徴する作品のひとつです。
🔥 同じカテゴリーの記事
最終更新日

\ おすすめのアクティビティ /